
『なぜ看板のない店に人が集まるのか
スモールビジネスという生存戦略』
田中 森士 著 祥伝社
本書は、スモールビジネスの本質に鋭く切り込んだ一冊である。タイトルからは小規模な店舗経営のノウハウ本を想像するかもしれないが、実際には、事業開発や新規ビジネスの担当者を始めとする、すべてのビジネスパーソンにとって示唆に富む戦略書となっている。
AIの進展、人口減少、金融政策の転換といった構造的なマクロ環境の変化は、企業規模を問わず無視できない影響を及ぼしつつある。こうした時代において、いかに事業を構想し、他社と差別化し、持続可能な形で市場に定着させるか。本書では、その問いに対する具体的な思考の枠組みが、豊富な実例とともに明快に提示されている。
著者の田中氏は、スモールビジネス支援を手がけるコンサルティング企業の経営者であると同時に、アジア最大規模の中小企業ネットワーク「アジアスモールビジネス連盟」の日本代表も務めている。実務に根ざした経験と、数多くの支援事例から得られた知見をもとに展開される本書の議論は、一般的な理論書とは一線を画す。抽象論ではなく、現場で蓄積された知見を通じて、理論と実践の架け橋を構築している点が際立っている。
特に注目すべきは、「スモールビジネスの持続可能性チェックリスト」の存在である。10項目にわたるこのリストは、単なる経営診断のツールにとどまらず、持続的な成長を見据えた戦略設計の中核を担うフレームワークとして機能している。スモールビジネスの現場に即した問いと示唆は、そのまま事業戦略立案に直結する実用性を持っている。
また、本書が一貫して訴えるのは、従来型の「拡大ありき」の経営観への疑義である。近年フィリップ・コトラーが提唱する「デグロース・マーケティング(脱成長:degrowth marketing)」では、成長ではなく持続可能性が中心的テーマとされる。本書も同様に、「むやみに拡大しない」という姿勢――すなわち、規模よりも価値の深さや顧客との共感を重視する視点――を基盤としており、成長神話に依存しない経営のあり方を提起している。
「なぜ看板のない店に人が集まるのか」という問いは、企業活動の本質を鋭く突いた命題といえる。広告や装飾を排してもなお顧客に選ばれる企業とは何か。その答えを考えることは、「自然と売れる仕組み」を生み出すマーケティングの原点を見つめ直す行為でもある。企業が社会や顧客に対して本当に届けるべき価値とは何か――本書はその原点への思索を、読者に静かに促してくる。
ビジネスの規模や業種を問わず、新しい価値の創出に向けて動き出そうとするすべてのビジネスパーソンにとって、本書は確かな道標となる。拡大よりも深度、表層よりも本質が問われる時代において、経営の足場を築くうえで間違いなく読むべき一冊だ。
Recommended by 河野 安彦
日本マーケティング協会 国際事業部 部長