佐野 大樹 氏
アナリティカル・リングイスト
書かれた言葉≠読まれた言葉
コロナ禍において、言語学を生業にしてきた人間にとってひどく心配させられる記事があった。リモートワーク中「もうこの仕事やらなくていいよ」という上司のチャットのメッセージを見て、部下が退職してしまったという記事だ。上司は部下を気にかけて「仕事の量を調節してあげよう」という意図をこの言葉で表現しようとしたが、部下は「自分はもうこの仕事に必要ない」と解釈したそうである。
現在はまた多様なコミュニケーションスタイルが可能となったが、言葉を解釈する側の思考と表現する側の思考の不一致によって起こる問題は、いまだに様々な場面で見受けられるように思う。言葉を表現する側も、言葉を解釈する側も、自身が存在する状況に応じて言葉の意図を考える。そのとき、お互いの状況全てが共有されるわけではなく、文脈が違えば書かれた言葉と読まれた言葉の意味に差異が生じてしまうのは、避け難い問題のようにも思える。

では、言葉を書く側も読む側も、対話を成立させるためには何が肝要になってくるだろうか。私は、そこで鍵となるのが「シェアード・ディスコース」というコンセプトであり、それを達成するのに活用できるツールのひとつが生成AIなのではないかと考えている。
シェアード・ディスコースって?
言語学では、会話や文章とそれを取り囲む文脈、状況や文化を含めて、「ディスコース」と呼ぶ。例えば、先ほどの「もうこの仕事やらなくていいよ」のディスコースは、その発言だけをさすのではなく、話し手と聞き手が置かれた状況、所属する企業・社会の文化や背景なども含めたものになる。
インターネットやSNSが発達した現代でも、自分が経験したことのないディスコースにアクセスすることは、必ずしも容易ではない。ネットを介して、多様なディスコースの文章や会話にアクセスすることはできるようになったものの、その背景にある状況や文化を踏まえて言葉を読んだり・書いたりすることは、言語の壁、物理的距離の壁、専門性の壁、社会的距離の壁など、様々な要因によって制約される。
このような壁を溶かして、自身が所属するディスコースだけでなく、さまざまな社会やコミュニティーとディスコースを共有するという選択肢のことを、私は「シェアード・ディスコース」と呼んでいる。言葉を読み、書き、そして、それについて考えるときに、様々なディスコースを観点として、表現された・解釈された言葉だけでなく、選ぶことができた他の選択肢、および、その背景を考えることができれば、言葉を平面的に捉えるのではなく、解像度を上げて、多角的に言葉を表現・解釈することができるのではないだろうか。
言葉を考える解像度⤴️のための言語学
では、ディスコースを踏まえつつ言葉の表現・解釈の選択肢を考えるにはどうすれば良いのだろうか。もしも「あなたのディスコースについて説明して」と対話者に聞かれたら、どのように文脈や背景を説明すれば良いのか、考え込んでしまうようなこともあるだろう。私は、そこで活用できるのが、言語学のディスコースを捉える枠組みと生成AIとの対話ではないかと考える。
ひとくちに言語学といってもさまざまな理論があるが、Systemic Functional Linguistsと呼ばれる機能言語理論では、「状況のコンテクスト」という枠組みを用いて、ディスコースを記述する。この言語理論では、言葉の選択に影響する主なコンテクストの要因として、「フィールド」「テナー」「モード」の3つがあるとしており、それぞれ以下のように定義している。


この枠組みを用いてディスコースにアプローチすることで、文脈や背景といった漠然としか見えないようなものも、解像度を上げて説明することができるようになる。フィールド、テナー、モードを観点とし、それぞれのパラメータとその値を記述し、それをコンテキストとして捉えるというわけである。
このように、言葉の文脈や背景について記述することを、私は「コンテクスト・プロファイリング」と呼んでいる。例えば簡単な例として、この枠組みを用いて、数学の授業のコンテクスト・プロファイルは以下のように記述することができるだろう。我々は言葉を選ぶ際に、実はこのようなコンテクスト・プロファイリングを無意識に行っていると考えられる。特別なスキルではなく、あくまで、無意識に行っている行為を明示的にする過程と考えていただきたい。

シェアード・ディスコースの視点で考えるための生成AIスキル
コンテクスト・プロファイリングを用いて、解像度を上げてディスコースを捉えるスキルを獲得できると考えるが、それ単体だけでは、様々なディスコースを観点として言葉を表現・解釈できるようになるわけではないだろう。分析スキルをもっていても、様々なディスコースと接する機会が無ければ、ディスコースごとに可能な言葉の表現・解釈の選択肢がどういったものなのか把握できないためである。今までは、多様なディスコースを「経験」する、または「適応」できるか否かが、言葉の選択肢を考える力に大きく影響を及ぼしてきたのではないかと考える。多様なディスコースを経験するには、時間にも機会にも恵まれている必要があった。しかし、今、我々は生成AIという選択肢を持っている。
生成AIは、言語の壁、社会の壁、コミュニティーの壁、物理的距離や専門性の壁を超えて、ひとりの人間が一生かかっても経験することができない量の言葉をデータとして、構築されている。この強みを生成AIとの対話で言語学の知見を踏まえながら活用することで、シェアード・ディスコースを構築して、言葉を考える力を養っていくことができるのではないかと考える。

冒頭の例について考えると、上司は、部下のフィールド・テナー・モードで「もうこの仕事やらなくていいよ」という言葉がどのように解釈される可能性があるか、同じ意図を伝えるにしても他の表現の選択肢にはどのようなものがあるか、生成AIに選択肢を提示させることで、部下のディスコースにおける言葉の選択肢を擬似的にシミュレーションできるのではないだろうか。同様に、部下は、上司のフィールド・テナー・モードで「もうこの仕事やらなくていいよ」はどんな解釈の選択肢があるのかを生成AIに回答させ、上司のディスコースにたって、発言を捉え直すことも可能になるのではないだろうか。例えば、生成AIとの対話の具体例として、以下のように、フィールド・テナー・モードを記述して、生成AIに質問することができるだろう。
プロンプト
以下のコンテクストで、部下に「もうこの仕事やらなくていいよ」と伝えようと思います。部下は、この表現をどう解釈する可能性があるか、解釈の選択肢を考えてください。また、この表現以外には、どのような伝え方があると思うか、いくつか提案してください。
フィールド:
– 出来事: プロジェクトの仕事の割り振りの調整
– 参与者: 自分 (上司)、部下
テナー:
– 自分と部下の関係: 上下関係
– 自分と部下の距離: プロジェクトメンバー、仕事での付き合い
モード:
– 目的: 部下に、仕事の量を調節するために、この仕事はもうやらなくて良いと伝える
– 形式: リモートワークのためチャット形式での伝達
すると生成AI ()は、以下のように、部下の立場を想定して、言葉の解釈と表現の選択肢を提示してくれる。これを参考にしつつ、上司は自分の言葉の選択について、部下に伝える前に、考えることができるのではないだろうか。
生成AIの回答
部下が「もうこの仕事やらなくていいよ」という表現を解釈する可能性
部下がこの表現をどのように解釈するかは、様々な要因によって異なりますが、以下のような可能性があります。
ポジティブな解釈
- 仕事量の調整: 「仕事が大変だと思っていたから、上司が気遣ってくれた」と好意的に受け取る可能性があります。
- 新しい挑戦: 「新しい仕事に挑戦できる機会を与えられた」と前向きに捉える可能性があります。
- 能力への信頼: 「自分の能力を認められ、より重要な仕事に集中させてくれている」と感じる可能性があります。
ネガティブな解釈
- 能力不足: 「自分はこの仕事ができないと思われたのではないか」と不安に感じる可能性があります。
- プロジェクトからの降板: 「プロジェクトから外されたのではないか」と不信感を抱く可能性があります。
- 評価への影響: 「この仕事の成果が評価に影響するのではないか」と心配する可能性があります。
- パワハラ: 「もうこの仕事やらなくていい」という言い方に、上司の冷たさや威圧感を感じる可能性があります。
その他の解釈
- 指示の意図: 「上司は何を意図しているのだろうか」と真意を測りかねる可能性があります。
- 状況の変化: 「何か状況が変わったのだろうか」と理由を推測しようとする可能性があります。
「もうこの仕事やらなくていいよ」以外の伝え方
部下への伝え方一つで、相手の受け取り方は大きく変わります。以下の例を参考に、より建設的な伝え方を検討しましょう。
理由を明確に伝える:
- 例:「〇〇さんの能力を活かせる新しいプロジェクトが始まったので、この仕事は〇〇さんに任せたいと思います。」
- 例:「このプロジェクトは、〇〇さんの負担が大きいようなので、他のメンバーに分担してもらうことにしました。」
感謝の気持ちを伝える:
- 例:「〇〇さんには、このプロジェクトで大変お世話になりました。本当に助かりました。」
- 例:「〇〇さんの頑張りにはいつも感謝しています。ありがとうございます。」
今後のことを話す:
- 例:「このプロジェクトが終わった後、〇〇さんには〇〇のような仕事をお願いしたいと思っています。」
- 例:「〇〇さんのキャリアプランについて、一度じっくり話しましょう。」
もちろん、生成AIが常に全ての可能性を提示できるとは限らないものの、生成AIと様々なコンテクストを想定して言葉を考えることで、言葉の平面的な表現・解釈からの離脱のきっかけを掴むことができると考える。自身のhere-now (ここ・いま)に縛られた言葉の表現・解釈の選択だけでなく、第三者や他のコミュニティーのディスコースの立場になって言葉を考える練習場として、生成AIとの対話を活用するというわけである。
「選択力」の必要性
最後に、今後の社会で、言葉を読む・書く・考えるうえで、より必要になってくる力は何か、考えてみたいと思う。私は、それは主体性なのではないかと思う。
言葉が記号である以上、読むという行為も書くという行為も、言葉だけで意味が成立するわけではない。話し手・聞き手を取り巻く文脈が存在するからこそ、言葉は生きる。話し手も聞き手も、自身を取り巻くディスコースだけでなく、対話者のディスコース、さらには、他のコミュニティーや社会のディスコースについて生成AIを介して、シミュレーションできるようになることで、言葉を平面的でなくより多角的に考えることができるようになっていくのではないだろうか。
生成AIとの対話を介して、自分が今まで経験したことがないディスコースを、自分のディスコースに取り込んでいき、様々なディスコースを共有していくなかで、我々は、どのディスコースが有益か、優先されるべきか、自身の目的やゴールに合致するのかを判断できる必要がある。このとき、自身の言葉の表現・解釈の選択を、評価、分析、優先順位付けできるような「選択力」が求められる。この選択力が、我々の主体性を築いていくと考える。
生成AIの普及とともに、言葉を読むこと・書くことがより容易になっていく社会で、一般教養として言葉を考えるスキルの獲得がより重要になっており、人と人のコミュニケーション手段としての言葉だけでなく、人と生成AIとの対話手段としての言葉の役割に関する言語学的・言語教育学的な知見がさらに必要になっていくのではないかと考える。
参考文献
- 藤田耕司 (2022)「「もうこの仕事やらなくていいよ」で部下が退職、リモートでの会話のリスク」Diamond Online, .
佐野 大樹(さの もとき)氏
アナリティカル・リングイスト
Googleで生成AIの開発に従事するAnalytical Linguist(アナリティカル・リングイスト)。オーストラリア国立ウーロンゴン大学にて選択体系機能言語理論の研究で博士(Ph.D)取得後、国立国語研究所で『現代日本語書き言葉均衡コーパス』の構築に従事。プロジェクト終了後、情報通信研究機構ユニバーサルコミュニケーション研究所にて、災害時の問題-対応策ツイートのマッチングや含意データベースの開発を行う。2014年より現職。著書には『生成AIスキルとしての言語学:誰もが「AIと話す」時代におけるヒトとテクノロジーをつなぐ言葉の入門書』(かんき出版)などがある。