寄稿


考えない思考


「読む・書く・考える」を超える、新たな知のアプローチ

渡邊 和久
未来研究家/クリエイティブコーチ
パナソニック株式会社 デザイン本部

はじめに 進化のスイッチ
 皆さんは毎日のルーチンを持っていますか?
 私は目が覚めたら、身なりを整える前に1日の計画を立てます。そして最初の日課として『写経』を始めます。書き写すのは「お経」ではなく「セールスレター(SL)」。コピーライティングを学ぶ方にはお馴染みの練習法ですが、最近はこれを毎朝1時間、欠かさず続けています。AIが全盛の時代に、こんなことは古臭い修行のように見えるかもしれません。でも、実はChatGPTを使い始めてから、この写経を習慣にするようになりました。
 未来研究に取り組む私にとって、AIが当たり前になる未来はある程度予測していました。しかし、実際に使ってみると、人間の言葉を補い、画像や映像を瞬時に作り、台本さえあればビデオ編集までこなす。その性能と進化のスピードは想像をはるかに超えています。まるで思考そのものが拡張していくようです。一方、こうしたAI全盛の状況が続くとき、人間はどこへ向かうのか。希望と不安が入り混じるなかで考えを巡らせる人も多いはずです。
 今から約180万年前、猿人から原人への進化に伴って、人類の脳は350ccから1,350ccへと大きく拡大しました。諸説あるものの、「人間が火の調理を始め、食べ物の消化・吸収がしやすくなり、大量のエネルギー摂取が可能になった結果、脳が発達した」という説が私は有力だ考えています。言い換えると、「消化の外部化」によって猿人と人間を分かつ進化のスイッチが押されたのです。
 そして現代、同様の進化のスイッチが再び押されました。それがAIによる「思考の外部化」です。自分の頭脳活動の一部を外部に預けることで、人間の「読む・書く・考える」の未来はどう変化していくのか。本稿では、私が毎日取り組んでいる写経から得られた気づきをもとに、“考えない思考”という視点を提案したいと思います。

考えずに読む

 新刊書は1日あたり約200冊、年にすると7万点ほどが発行されるそうです。すさまじい量ですが、ある編集者は「送られた読者アンケートを見ると、内容とまったく関係ないことばかり書かれている」と嘆いていました。もちろん、本を読む目的は人それぞれですし、正しい読み方やアウトプットの仕方を一義的に定義する必要はありません。
 とはいえ、私なりに「素敵な本の読み方」を考えていると、40年前からお世話になっている恩師の顔が浮かびます。大企業を早期退職し、木彫り作家を営みながら山歩きを楽しむ方です。この恩師は『万葉集』の気に入った歌を頼りに山に向かうそうです。「この歌はどこで詠まれたのか」と想像を膨らませて地図を開き、大和の山へひとり入っていく。そして「ああ、ここからあのぺたんとした山を眺め、この歌が詠まれたのだ」と歌人の体験をその場で味わう。まさに「読む」を味わい尽くす遊びの達人です。
 さらにもう一人、RIZAPの瀬戸社長のエピソードも印象的でした。若い頃、成績がほぼ最下位で本を読むとすぐに寝てしまう瀬戸さんは、「毎日、本を開こう。読めなくても開けば良し」と決めて続けた結果、半年後には1日1冊読めるようになったとのこと。そのうえ、本の著者(スゴイ偉人や経営者)が毎日の話し相手になるため、彼らの思考パターンが自然に身についたとも語っています。
 そもそも私たちは、人の話を聞いてわかったつもりでも、実は誤解が生じていることが多いのです。読書も同じ。一つは、話し手(書き手)は自分の体験(x)を言葉(v)に変換しますが、そこには話し手固有の思考回路(f1)が介在するため、体験そのものとは異なる表現になります[v=f1(x)]。もう一つは、聞き手(読み手)はその言葉(v)を自分の思考回路(f2)で受け取り、理解(p)してしまうため、オリジナルの意味とはズレが生じるわけです[p=f2(v)]。

 では、どうすれば共感が生まれるのか。私の答えはシンプルで、「聞き手の思考回路を極力なくし、考えずにそのまま受け取る」こと。そして、話し手の思考回路の先にある体験を、自分自身で追体験するように努めることです。恩師は万葉集の歌人がいた場所を探し当てました。瀬戸さんは経営者としての実践で先人の真意を汲み取っています。いずれも深い共感に至るアプローチだと思うのです。
 このように、できるだけ人間の思考回路を挟まずに体験に共感することは、言い換えれば「考えずに読む」ということかもしれません。著者の身体感覚に「憑依」するような読み方は、AIがまだ得られない人間だけの醍醐味ではないでしょうか。

考えずに書く

 誰もが赤信号で止まるのは、これが交通ルールとして言語化されているからです。言語化されないルールは現代社会では通用しません。社会は言語でできていると言っても過言ではないのです。
 しかし、学校教育で実践的な文章術を学ぶ機会は意外と少なく、ビジネス文書、企画書、プレゼン資料、SNS投稿、恋文や謝罪文に至るまで、文章力に悩む人は少なくありません。
 私自身、文章が苦手だったため、売れるセールスレター(SL)を書き写す『写経』に取り組むようになりました。この写経を薦めてくれた人は、「書き手になりきる」「憑依する」ことが重要だと言います。女性向けなら女性の気分になる、社長向けなら社長として書いてみる。極端な例では、女性向けセールスレターを書くなら下着を替え、化粧をし、女装するくらい徹底するのが良い、とまで教わりました。
 そもそも文章を書くことは、表現したい体験(x)を言語(v)に変換する行為[v=f(x)]です。女性向けのセールスレターなら、伝えるべき体験(x)を女性向けの思考回路(f)で変換しなければ届きません。『写経』はすでに完成しているSL(v)を分解し、作者の思考回路(f)と体験(x)を読み解く訓練であり、写しているのは文字というよりも「思考回路」。成功しているライターの思考を真似することでライティング力を高めるのが本質なのです。

 この「写す」行為は、絵画や彫刻の世界にも見られます。ゴッホも浮世絵を模写して、その秘密を探ろうとしたといいます。手を動かしながら作者の思考回路を自分に取り込む。まさに「考えずに書く」からできる鍛錬法と言えるでしょう。

考えずに考える

 サッカー界の世界的スター、クリスティアーノ・ロナウド選手は、ドリブルをしているときはまったくドリブルのことを考えないそうです。無意識にボールをコントロールしながら、周囲の状況や究極のルート探しに意識を100%集中できるため、相手は止められないのだとか。味方の意図を察知し(読み)、意図した場所へピンポイントでボールを動かす(書く)ことができる。まさに究極の「考えずに考える」状態でしょう。
 「それは、ロナウドだからできるのでは?」と思うかもしれませんが、私たちも食事の際のお箸の使い方や自転車のペダルを漕ぐタイミングはいちいち考えていません。最初は試行錯誤を繰り返すものの、いつの間にか「無意識的有能」へ到達しているのです。
 このように意識しなくてもスムーズに行える動作や技能は「手続き的記憶」とも呼ばれます。意識を卒業し、新たな余白が生まれた状態では、言語化されない情報や感覚がダイレクトに入ってきます。
 虹が何色に見えるかは国によって異なり、アフリカの一部地域では2色、ドイツやベルギーでは5色、アメリカやイギリスは6色、日本では7色だそうです。本来は連続したグラデーションの虹でも、言語の枠組みが思考回路を制限してしまうことで、虹を色数のまま認識してしまいます。言語的な思考を止めて「考えない」状態になると、ありのままの世界を感じ取りやすくなるかもしれません。
 ここで、フロイトの氷山モデルを思い出してみましょう。フロイトは、意識上(conscious)・前意識(preconscious)・無意識(unconscious)という3つの層を仮定しました。意識上は氷山の一角にすぎず、前意識や無意識には膨大な情報や感情が眠っていると言われています。もし意識の表層を「考えない」状態に近づけられれば、無意識下にある広大なリソースにアクセスできる可能性が高まるのです。これを本稿では「考えずに考える」と表現しています。

 AI技術が進歩し、「思考の外部化」が容易になった時代だからこそ、私たち人間が持つ無意識の力、『意識上の制限を超えた感覚や発想』をどう活用するかが、新たな進化の鍵になるのではないでしょうか。

無意識を書き換える考えない思考

 「考えずに読む」「考えずに書く」「考えずに考える」の3つを通じて作用する先は、「無意識の自分」だと私は考えています。つまり、私たちが何気なく行う「読む・書く・考える」行為は、実は無意識そのものにアプローチする強力な手段なのです。
 ここで、AI(を組み込んだロボット)と人間が並んで坐禅をしている場面を想像してみましょう。両者に「無になれ!」と指示すると、AIは単に演算を停止し活動を止めるかもしれません。しかし、人間の場合、思考を止めた先に、拭い去ることができない“何か”が残ると感じるのではないでしょうか。元からそこにあった、唯一無二の存在・・・・それはAIには備わっていない、人間だけが持つ何かだと私は思います。
 読むことは誰にでもできます。書くこともペンを持てば誰にでもできます。しかし、この誰にでもできる当たり前のことを誰よりも徹底的に行う人たちが、世界のスーパースターになるのです。たとえスポーツであっても、ロナウドや大谷翔平選手が実践しているのは、誰もができる基礎を誰よりも深め、「考えなくても思考できる」状態を無意識にまで染み込ませること。このハイパフォーマンスを「考えない思考」と呼ぶこともできるでしょう。
 さらに、「読む・書く・考える」を通じて無意識を変えられるということは、私たちが未来をも書き換えられる可能性を示しています。ありたい未来の姿が無意識に落とし込まれれば、ホメオスタシス(恒常性維持)の原理によって、自然とその方向へ行動が促されるからです。理想の人の本を読み、体験を真似し、言葉を書き写して心情に憑依する。そうして「ありたい未来」を実現する思考回路が形成され、誰もが自分の姿を変えていけるのではないでしょうか。
 AI全盛の時代だからこそ、「考えない読む・書く・考える」を徹底して実践してみる。これこそが、私が本論考で最終的に伝えたかった核心のメッセージです。思考の外部化が進む中で、人間独自の無意識に潜む力を呼び覚ますことは、進化の新たなステージを切り拓く鍵になると確信しています。

渡邊 和久(わたなべ かずひさ)氏
未来研究家/クリエイティブコーチ
パナソニック株式会社 デザイン本部

パナソニック入社後、独立型デザイン組織「未来創造研究所」の設立に参画、2014年から22年まで所長を務める。「電球買い替えエコ(2003)」「CO2±ゼロ住宅(2009)」「顔認証ゲート(2017)」「IoT型珈琲焙煎機(2017)」「快眠環境サポートサービス(2020)」などの構想・企画・実装に携わる。その過程で事業化の成否は組織責任者の「長期視点」の有無が大きく影響すると結論づけ、リーダー必須のマインドセット「未来思考」を提唱。外部セミナー、街づくりボランティア等の活動を行う。著書に『大手メーカーの未来研究者による門外不出の企画思考トレーニング』(飛鳥新社)。