第30回
日本のマーケティング活動の
変遷を振り返る

大坪檀のマーケティング見・聞・録

時代の変遷とともに知識、技術の陳腐化は進行する。だいぶ前になるが大学で習得したことは何年くらいで役立たなくなるかを同僚で議論したことがある。

 同僚の一人が一番短いのは工学系だと指摘した。大学を出て早ければ2〜3年で陳腐化するものもあるという。学問、知識、技術のライフサイクルを論じるのは難しい。わかっているのは何時も学び続けること。 
 最近はリカレント教育、リスキルなどという言葉も登場しているし、日本の発展に必要な人材投資の議論も盛んだ。学問、知識、技術の進化は目覚ましい。新知識、新技術の進展に目を付け常に学び続けるのは不可欠だ。
 マーケティングの学問が日本に入ってきたのは戦後である。電通や業界団体がアメリカに視察団を派遣し学び入れたもので、昔商業、今マーケティングという感じだが、林周二先生の“流通革命論”の登場で、マーケティングが一躍脚光を浴びるようになり、田島義博,村田昭治、田内幸一、小林太三郎、宇野政雄、亀井昭宏、嶋口允輝、井関利明など多くの先生が日本マーケティング協会でマーケティングの発展、教育に尽力されていたのを思いだす。日本マーケティング協会の佐川会長、鳥井会長の時代には日本マーケティング協会の国際化が大きく展開。グローバル化時代のマーケティングの学びの交流が始まり、筆者もおかげさまで世界のマーケターと交流する機会に恵まれた。マーケティング会議は世界の各地で開催され日本のマーケティング活動、その特質について世界的な関心が高いのには驚いた。1991年に鳥井会長の主導のもとにアジア太平洋マーケティング連盟が設立、2007年にアジアマーケティング連盟(AMF)が誕生している。
 日本のマーケティングに対する国際的な関心の高まりに応じて 日本マーケティング協会の濱田専務理事の時代に国際的にきちんと外部の有識者の視点も入れて“日本のマーケティングの特質”をきちんとん纏めておこうという動きがあり、たまたま当時ハーバード大学のビジネススクールに訪問学者として滞在していた小生に濱田専務理事より非公式な打診依頼があったのを思い出す。研究室のすぐそばにいたのが気鋭な著名マーケティング学者のQ先生。早速このプロジェクトを持ち込むと快く引き受けてくだされ、いろいろな研究者と打ち合わせていただいたが、出てきた研究費の予算見積りが1億円近いものであった。当時のマーケティング協会の力では対応できる領域を超えていたので、この構想は幻のプロジェクトで終わってしまった。
 その後の日本のマーケティング活動は大きく変化、変容した。おもてなしが日本のマーケティングの神髄のようにいわれたことがあるが、実際はどうなのか。グローバル化、IT化そしてコロナ禍対応でどう変化したのか。この辺で日本のマーケティングの神髄を総括してみる必要があるのではないか。
 研究室で古い書類の整理をしていたら、静岡県が日本マーケティング協会と協働でマーケテイングの専門大学院を設立する構想書を発見。鳥井会長が当時の石川静岡県知事を訪問したり、石川知事もマーケティング国際会議で行政とマーケティング志向について講演したりで、マーケティング大学院構想は盛り上がった。濱田専務理事を中心にマーケティング協会の事務組織も構想の実現に向けて練り直されたという。静岡県は東京から新幹線で30分余りの地域に大学を誘致し、設立誘致に必要なかなりの資金を用意した。協会側は県立大学方式での運営協力を希望したが、結局のところ継続的な黒字経営は困難ということで着地点が見いだせず最終的にはこのマーケティング大学院構想も幻のプロジェクトに終ってしまった。
 日本マーケティング協会の2023年のマーケティング・べーシックコースとマーケティング・マスターコースの中身には当時描いていた大学院構想をはるかに上回るものを見出す。マーケター、あるいは経営者、起業家が学ばなければならないマーケティングの知識、技法は日々発展しており、学びの関心はますます高まっている。マーケティング的な思考、アプローチ、問題解決の手法は、行政経営、病院経営、NPO、保育看護、教育などビジネス分野以外でも不可欠なものとなってきた。静岡県のがんセンターはがん治療の研究では日本のトップ3の位置を占めるようになったが、それは“患者、患者の家族のため”という設立以来掲げる標榜とそれを推し進めるマーケテイング的治療、研究活動によることが大きい。

Text  大坪 檀
静岡産業大学総合研究所 所長