脱偏差値教育で人財をつくる
藤重 少し話を変えますが、。最近、都内の有名私立大学や国立大学の学生の8割が自宅通学で、下宿の学生は2割のみと聞きました。かつて都内のいわゆる有名大学には全国から学生が集まり、下宿や寮が当たり前でしたが、今はすっかり様変わりしているようです。理由の一つは、大学側が地方の優秀な人材を集めようと推薦入学制度を導入するなど努力をしている一方で、首都圏の学生と地方の学生との間に学力差が見られるようです。首都圏の学生は、相対的に親の経済力が高い傾向にあり、幼少期から費用のかかる塾や予備校に通い偏差値を上げている傾向があるからだと思います。
結果として、都内の有名大学は東京のローカル大学になりつつあり、今や全国版ではないのです。世界から学生が集まる大学を目指すべきなのに、世界どころか日本国内からも人材が集まりにくい状況です。
大坪 私は、教育も一つの産業だと考えています。教え方やメソドロジーを開発することによって、早く、楽しく、効果的に学べる仕組みをつくる。その人の能力を引き出してやれるような仕組み自体が大きな産業になります。
医学の学習はAIの活用で楽になったと聞きます。そうした新しい仕組みを日本がつくり、そこに哲学的な要素や教育観を組み込めば、世界に貢献しながら収益も生む教育産業になり得ます。結局、人間の豊かさを生むのは人材です。一朝一夕ではありませんが、教育の影響は非常に大きいと思っています。

藤重 教育も偏差値ではないですよね。偏差値至上の教育は間違いだと思います。
大坪 ランキングや偏差値は分かりやすいのでマスコミも好みます。しかし本来の教育は、真に良い人材が形成されるかどうかであり、偏差値とは別問題だと思います。大学も学歴も関係ない。その辺りを考え直す時期が来ていると思います。どのように社会を見て、どうやって社会に貢献できるか、そのためにどういう手段を選ぶかを考える力が本当に大事だと思いますね。
実は、スタートアップ企業を育てた人には大学を出ていない人のほうが多いのです。石橋正二郎さんも本田宗一郎さんも豊田喜一郎さんも松下幸之助さんも大学は出ていない。創業者はほとんど大学を出ていないのです。面白いですよね。
藤重 私は以前、ある超難関有名大学の医学部で講演した際、学生に「なぜこの学部を選んだのか」と尋ねると、「偏差値が高かったから。自分の偏差値ではこういう学部しかないから」と答えました。医師は使命感を持って人の命を救う、病気を防ぐために医学部に行くというイメージがあったのですが、現実はまったく違う。偏差値が高いから医学部に行くという発想では、良い病院ができるはずがありません。
大坪 アメリカの多くの大学入試では、面接が重要視されます。あなたは何をやってきたのか、何ができるのかを問われます。私は、MBA取得後にアメリカの博士課程に進みましたが、面接で「君は面白いから入れ。You are different」と言われて合格しました。日本にもそういう時代が来るのではないかと期待しています。
藤重 そうですね。偏差値ではない。
大坪 私は、できない子を何とかしてできるようにするのが教育者の役割だと思っています。できない子と言われている子を連れてこい、おれができるようにしてみせると。うちの大学では大化け教育と呼んでいますが、学生は皆、一流の人間に育っています。会社の社長になる者もいれば博士号を取る者もいる。こちらが使命感を持って取り組むから、学生もそれに応えてくれるのでしょう。
哲学の時代の、使命感あるマーケティングを
藤重 やはり、先ほどの産業人の使命や理念がすべての原点ですね。
大坪 そうです。使命感や社会貢献の意識がなければ、本当のマーケティングはできないと思います。もちろん、それを実現するための技術や仕組みも必要ですが、根底にあるのは哲学ですよね。産業人の役割は極めて大きい。ですから、日本マーケティング協会はそうした分野の研究をもっと進めてもいいと思います。産業人が自らの使命をどう考え、どんな価値観を創り出し、これからの時代にどのような哲学を持つべきかといったテーマは、経団連よりもむしろ日本マーケティング協会が担うほうが良いように思いますね。
藤重 そうですね。
大坪 日本の経営者は、アメリカの経営者に比べて長期的な視野を持っていると思います。長い時間をかけて価値を育て、利益を生むという考え方です。アメリカは株主総会メインという傾向がありますから、短期経営的な視点となり、長期的な見地から取り組めないのです。その違いは大きい。やはり日本は皆で豊かにしようという発想がありますね。
もう一つ、アメリカで、皆で、とならない理由に、独占禁止法のカルテルの問題があると思います。とにかく独禁法が厳しいですから。そもそもアメリカには独占的な体質があるのでしょうね。私がアメリカで責任者をしていたころ、弁護士から、絶対に同業他社の人間とゴルフをしてはいけない、捕まるぞと厳しく言われたほどです。日本のマーケティング業界ではそうした問題はあまり起きませんね。
藤重 アメリカは競争社会で、徹底的に敵を叩いて自分がナンバーワンになるという文化が強い。協調的な雰囲気は生まれにくいのでしょうね。その発想では、必ずしも皆を幸せにしません。むしろ、協調しながら産業を大きくしよう、人のためにやりましょうというほうが長期的な成長につながります。
大坪 まさにこれからの時代は哲学が基本になると思います。会社の哲学、経営者の哲学、産業人の哲学など、ますます哲学が求められる時代になるでしょう。
そして、哲学は産業人の使命であると思います。自分が日本を豊かにする、人類を豊かにするという使命感が必要です。ライオンさんもそうでしょうが、創業者は使命感がありましたよね。
私は当時、ブリヂストン創業者の石橋正二郎さんに「なぜ、タイヤ会社をつくったのですか」と尋ねたとき、石橋さんは「皆、わらじを履いていてかわいそうだったから」と答えました。最初はわらじの代わりに地下足袋をつくったのです。儲かったから、その資金でタイヤ事業を始めた。出発点は人を助けたいという思いだったのです。使命感こそ、産業人の根幹ですね。
ライオンの創業者はどういう方ですか。
藤重 ライオンの創業者・小林富次郎は、新潟県柿崎(現・上越市)の酒問屋の三男に生まれ、上京して石鹸をつくる会社に入り独立しました。クリスチャンとして社会奉仕の精神が強かったようです。事業で大失敗をしてしまい、自殺も考えるほどに追い詰められたとき、たまたま聖書で「今、苦労していることは将来のためになる」といった一節を読んで開眼し、「社会に尽くそう」と決意して、小林商店として歯磨き粉の製造を始めました。さらに、歯磨き粉の小袋に慈善券を付け、使い終えた小袋を教会や慈善団体に寄付すると、その教会や慈善団体に合計額が寄付されるという仕組みを考案しました。大正時代から戦後にかけて孤児が多かった時代に、孤児院を設立し、食事や教育の場を提供したのです。
私が営業担当の頃、ある取引先で「ライオンさんは昔、小林商店さんですよね。昔、お世話になりましたから」と言われ、商品を買っていただいたことがありました。陰徳というと大げさかもしれませんが、一生懸命誠実に積み上げてきた行いが何十年も経って報われるということを、身をもって体験しましたね。

大坪 素晴らしい創業者ですね。私も石橋さんに長年お仕えし、『見・聞・録による石橋正二郎伝』という本も書いています。石橋さんという人は勉強になりました。まさに産業人のお手本です。
藤重 原価をとても重視される方と聞いています。
大坪 いいえ、重視したのは品質と顧客ですね。お客さんをよく見て、マーケットを何より大切にしました。そのような見方は大変勉強になりました。私が経営情報部長だったとき、数多くの示唆をいただきました。
藤重 石橋さんは、久留米市の全小中学校にプールを寄付されたとも聞いています。久留米大学も寄付されていますね。
大坪 社内に寄付委員会があり、今年はこれだけ儲かったから来年はいくら寄付すると毎年、計画的に寄付をしていました。東京国立近代美術館も石橋さんの寄付です。当時の大蔵大臣・佐藤栄作氏が「石橋さん、閣議決定したけれど予算がないので出してよ」と頼んだら、「ようござんす」と即答して寄付したそうです。病院の寄付も多く、手元に現金はあまり残していませんでした。
“産業人はうんと稼いで、社会を豊かにするためにある”という考え方です。私が学者として研究会を開くときも費用もすべて負担してくれました。良い人間をつくるのも会社の役割だと常に語っていました。本当に素晴らしい人でしたね。
藤重 すごい人物だったのですね。
大坪 石橋さんのように、これからのマーケティングにも使命感を持たなければいけませんね。そういう使命感を身につけるということも、日本マーケティング協会の重要な役割になるでしょう。哲学的な視点から経営を語る場を主催し、日本の経営者は金儲けばかりではないという姿を世界に示し、世界の経営者を驚かせてはいかがでしょう。
藤重 まさにAIの時代だからこそ、対極として、人間として本当にやるべきことは何なのかを皆で議論しながらつくりあげていきたいですね。これは皆が感じていることではないでしょうか。
世界の問題を解決するために、日本の文化や価値観が非常に有効であるということも含め、日本は今、絶好のポジションにあります。
大坪 私は、21世紀は日本の世紀になると考えています。だからこそ、これほど多くの外国人が日本を訪れ、日本を再発見しているのです。
“失われた30年”とよく言われますが、むしろ30年で日本は世界一平和で、世界一、国民がニコニコしながら老いる国を築いた。もちろん課題もありますが、健康長寿・安全・文化的成熟という意味では世界一です。マーケターもこの誇るべき日本の姿を礎に、世界に誇れるマーケティングを実践してみてはいかがでしょうか。
藤重 本日は素晴らしいお話をたくさん聞かせていただきました。ありがとうございました。


大坪 檀(おおつぼ まゆみ)氏
静岡産業大学総合研究所 特別教授
2025年4月に97歳を迎えた、100歳時代の経営学、マーケティング学者。東京大学経済学部卒、カリフォルニア大学大学院MBA取得。(株)ブリヂストン経営情報部長、米国ブリヂストンの経営責任者、宣伝部長。1987年より静岡県立大学経営情報学部教授、学部長、学長補佐。静岡産業大学学長、ハーバード大学・ノースカロライナ大学客員研究員を歴任。最近では、静岡県をベースとした東海エリアに、未来型大学の創造や、医療産業の一大拠点「ファルマバレープロジェクト」の推進に取り組む。『大化けの極意』、『見・聞・録による石橋正二郎伝』などの他、千尾将のペンネームによる著書多数。

藤重 貞慶(ふじしげ さだよし)氏
公益社団法人日本マーケティング協会 会長
ライオン株式会社 特別顧問
1947年埼玉県生まれ。1969年慶應義塾大学商学部卒業、同年ライオン油脂(現ライオン)入社。1990年イノベーションルーム室長、1992年ロジスティックス推進部長、1996年取締役国際事業本部長、2000年常務取締役家庭品営業本部長などを経て、2004年代表取締役社長に就任。2012年代表取締役会長、2016年相談役、2021年より特別顧問。日本卓球協会会長やACジャパン理事長を歴任し、現在、日本マーケティング協会会長を務める。
One thought on “人間中心の豊かな社会を築く
マーケティングの哲学を/後編”
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