豊かさのマーケティングが求められる
大坪 私は、日本という国は新しい時代をつくるパイオニアだと思っています。これからの健康長寿社会では、消費のあり方やモノの使い方、価値観そのものが変わっていくでしょう。例えば、かつて日本人が提唱した“シンプル・イズ・ベスト”といった発想も再び注目されるかもしれません。人がどのような生きがいを持つのか、それに応えるためにマーケティングが何を提供できるのか、これは極めて難しいテーマです。
なぜなら、長寿社会における最大の問題は「退屈」です。しかし、この退屈こそが、日本人がようやく手に入れた最大の価値だと考えています。つまり時間の価値です。これまでは時間がないからこそ懸命に働いてきましたが、時間があればこそ新しいことに挑戦できる。そうした社会で、いかに人々が豊かに幸福に過ごせるようにするか、それが今後の大きなテーマだと思います。
藤重 だからこそ、豊かさの定義そのものを変えなくてはなりませんね。人のために生きることが、自分自身の豊かさにつながるという視点が大切だと思います。
大坪 そうですね。豊かさの意味そのものが、いま革命を求められていると思います。これまでの豊かさはお金を多く持つことでした。しかし、人生の終わりにいくら財産があっても仕方ない。
藤重 マーケティングの歴史を振り返ると、豊かさの指標が変遷していきます。最初はモノがたくさんあるという時代からスタートして、次に品質を重視するようになり、量的な満足から質的な満足へ移行しました。さらにそれだけでは満足できず、心理的な満足、ココロの満足へと時代が進んでいきます。ああ良いものを手に入れたな、良い習慣を手に入れたなといったココロの奥底からの本当の満足を欲するようになりました。そのような満足を一生懸命実現するために科学技術が発展しましたが、結果として行き過ぎてしまい、大気汚染などを引き起こしてしまった。人間が豊かに生きるためには空気がきれいでなくてはなりませんが、どんどん空気を汚していく、飢餓の国が多くなるというふうに、本来求めるべき人間の豊かさとは真逆の方向に進んでしまいましたね。それをもう一度本筋に戻さないといけないですよね。
大坪 そういうことです。私がつくづく思うのは、この国や地域社会がどうやって豊かになっていくか考える上で最も大きな問題は、やはり人口問題、人口減少です。人々が地域社会から流出している。だからこそ、新しい都市のあり方、新しい生活のあり方もこれから提案していく必要があります。
人はなぜ地域を離れるのか、人はなぜ地域に住むのかということを考えると、そこに大きくて豊かな産業をつくることが不可欠です。稼げる産業をつくらないと人は定着しません。健康長寿社会とも密接に関係します。長く健康に生きるためには、安定した年金や貯蓄が必要であり、それを実現するためには若いときに豊かでなければならない。つまり、新しい産業の創出こそが、新しい社会づくりの基盤なのです。モノや価値をどう売っていくかということです。
私はこれを高付加価値産業と呼んでいます。AIの出現や人口減少により、労働力を集めにくくなる時代です。だからこそ、高い付加価値を生み出し、高い報酬を支払える産業に転換する必要があります。あるいはより大きな市場を目指すことです。
大きな市場とは、すなわち世界です。これからは、マーケティング人材が世界的な視野を持ち、国際的なマーケティング教育を受けることが欠かせません。日本の市場人口をベースにしている限り縮小していきます。しかし、富の創出は依然として重要ですから、世界を相手にしながら自分たちの価値を提供し、その見返りとして富を得る、そうした構造への転換が求められています。これからは世界を相手にして皆さまを豊かにしますから、その代わり、私たちに少し富を分けてくださいという発想が自然になるでしょう。国内市場だけでは限界があります。これからは世界市場での存在感が不可欠です。
これはまさに新しいマーケティングの領域です。日本では今、スタートアップ産業が増えていますが、多くがどう売ればよいのかがわからないという課題を抱えています。国内市場だけでは需要が足りない。だからこそ、世界中の人を豊かにする、そして我々も共に豊かになる、そんな共創型のマーケティングの時代が来ているのではないかと思います。
藤重 大変難しそうですが、おっしゃる通りだと思います。

大坪 もう一つの課題は、日本人は豊かさのマーケティングを十分に理解していないことです。富裕層のマーケティングですね。豊かになった人たちに、何をどう提供すればよいのか、何が豊かさと感じるのか、その理解がまだ浅い。
日本でも富裕層は確実に増えています。実は、大きな市場を形成しつつあるのは新しく誕生している富裕層でしょう。年収1,000万円を超える層も今後さらに拡大するでしょう。彼ら、そしてインバウンドの外国人富裕層も含めて言えるのは、彼らはモノにはあまり関心を示さないということです。むしろ日本の芸術・美術・文化に非常に興味を持っています。そうした層を対象とするマーケティングはかなり難しいですが、同時に大きな可能性を秘めています。
藤重 そうですね。感動や共感といったことが五感で感じられる豊かさなんでしょうね。モノがいくらあっても限度があります。食べることにも、お酒を飲むことにも限度があります。しかし、感動やココロの感じ方には限界がない。インバウンドの人々は、まさにその上質な感動を求めて日本を訪れているのでしょうね。
大坪 日本は、歌舞伎をはじめ素晴らしい文化が多くあります。問題は、それをどうやってマーケティングするかです。やり方を誤れば文化の押しつけになってしまいます。大学に訪ねてくる外国人に日本の民芸品を見せると、どこで買えるのかと尋ねられることがあります。昔は見向きもしなかったものに、今は価値を感じて買って帰りたいと言うのです。こうした日本の芸術・文化は、大きな市場になる可能性を感じますね。
藤重 以前、ドメスティックなものほどインターナショナルだと言われたことがあります。地域に根ざした本当に価値のあるものは、世界の人々にとっても魅力的なのでしょう。世界の流行や価値観に迎合するのではなく、日本文化の中にある、削ぎ落として残る本質的な価値をモノにした、例えば人形や刀のように日本独自の美意識が宿るもの、それこそが世界に通用するのだと思います。
大坪 そのような時代がすでに始まっていると感じます。
AIとマーケティング哲学
藤重 少し話題が変わりますが、最近、孫が生まれた方が、育児に対してあれこれ口出しすると娘さんに拒絶されると嘆いていました。理由は、AIに聞けば全て教えてくれるからだそうです。こういうときはこうしなさい、熱が出ているので水を飲ませなさいと、AIが指示してくれるので、余計なことは言わないで、と言われ寂しい思いをしているらしいのです。そうした効率的で正しいであろうやり方も大事ですが、やはり目の前の赤ちゃんを深く理解し、常に寄り添って支えるというのが大事だと思うのですが。
大坪 今おっしゃったマーケティングとAIの関係はこれからの大問題ですね。例えば、広告づくりも価値判断の基準が変わるでしょう。昔は、広告を出したおかげで売れたのか売れないのかは、誰もちゃんとはわからなかった。今はどれくらいのインプットにどれくらいのアウトプットがあるか施策と成果の関係が見えます。AIがさらに進めば、広告産業は大きな変化に直面するでしょう。
藤重 AIが高度化したとき、人間やマーケティングはどうあるべきかが大問題になります。
大坪 一度、日本マーケティング協会でシンポジウムを開き、意見を集めてはいかがでしょう。マーケティングの概念もそこから変わっていくのではないかと思います。
例えば医療の分野も大きな影響を受けています。先日、静岡がんセンターで総合検査を受けたところ、全部AIが診断するのです。あと3~4年経ったらがん化する細胞が見つかったとAIが言うから、AIの言う通りに切除しました。もう、そういう時代ですよ。
そんなふうに、医療だけではなくて、教育分野も変わっていくでしょう。最も変わるのはマーケティングではないかと思いますね。

藤重 そうですね。だからこそ、本当の幸せ、本当の豊かさは何かがとても大事ですよね。AIはあくまでも道具であって、いろいろなことを教えてくれて便利だけれども、AIは子どもを産むことができない。人間は子どもを産むことができるし、繁栄させることができるわけです。ですから、人間はAIを知識の塊として、過去の知識の塊として上手に使いこなせばいい。人間が、おそらく1万年前くらいの農耕を始めた時代に、犬が家畜化されて人間と一緒にずっと暮らしてきたように、AIを使いこなせばいいと思います。人間は、人間らしい本来の姿を発揮して、AIの言うこともうまく利用しながら“本当の幸せは何か”ということを求めていけばいい。シンプル・イズ・ベストといった生き方、あるいは循環やモノを大切にする生き方、自然を大切にした生き方といったことが本来の人間の在り方でしょう。そこから外れていくと、どんどんAIにリードされてしまいますよね。AIが人間を凌駕するという言説もありますが、そんなことは絶対にあり得ないと私は思っています。
大坪 その意味では、AIより賢く判断できるマーケターでなければなりませんね。
やはり、この社会をどうするか、自分たちはどう生きるか、どうすれば幸福になるかと考えるのは人間の価値判断ですから、人間自身がつくるものです。それをどうやって達成できるか、どうやったらもっと効率的にできるかはAIが助けてくれるかもしれませんが、何を豊かさとみなし、どう生きたいかと考えるのは人間自身ですよ。
藤重 そうですね。人間は生き物ですからね。
大坪 そこで重要になるのが文化です。今、文化を考える時代が来たのではないかと思っています。地域文化や日本文化などの文化性は生き方を大きく支配しますから、青臭いと言われるかもしれませんが、今こそ文化を考え直す時期だと思います。
藤重 そうですね。例えば、最近の異常気象など環境問題も本質は文化ですよね。我々が何を大切に生きようとしているのか、何を豊かさと思って生きようとしているのか、といったことの結果が現在の自然災害や環境破壊です。やはり、それは文化であって、すなわち生き方ですよね。それをもう一度、本来の人間の在り方に戻していくことが大事なんでしょうね。
大坪 これは非常に哲学的な問題です。AIで直面する論点は実に哲学的ですから、マーケティングの哲学が問われていることになります。
藤重 西洋文化・西洋文明はゼロかイチかとなることが多い。一方、東洋思想では、真実はゼロとイチの間にあるとされます。二分法で判断するような時代はもう限界が来ているのではないかと皆、気づき始めていますよね。では、代わるもの何かというところに今、いるような気がします。
大坪 今、一番悩んでいるのはそれでしょう。ゼロかイチかでは捉えられない課題が多すぎます。国際化で多様な文化が交わり、健康長寿社会が進み、人口は減少するなど、単純なゼロかイチかでは見通せない問題が多くなっています。
藤重 AIが語るのは、あくまでも過去のデータです。おそらく過去100年ほどの範囲でしょう。これから問われるのは、人間の本当の創造性と生き方です。それは創造であると同時に、人類として本来の姿へ回帰することでもあると思います。
大坪 そうでしょうね。ですから、マーケティングの領域もとてつもなく広がり、いずれマーケティングと言わずに新しい名前で呼ばれる時代が来るかもしれませんね。
藤重 私は、これから「文化人類学的マーケティング」という考え方が大切になると思っています。人類としてどうやって新しい豊かな世界を構築していくかという視点です。
大坪 おっしゃる通りです。アメリカでマーケティングを学ぶ者は必ず文化人類学を学べと言われます。文化人類学を学ばずにマーケティングだけを学ぶのは意味がない、と語った有名な学者もいます。これには非常に感銘したことを覚えています。
藤重 生き物としての本来の人間に立ち返り、幸せとは何か、豊かさとは何かという世界観を持って、それに向けてマーケティングが機能していく。我々が目指すのは、そういう時代のマーケティングでありたいですね。


大坪 檀(おおつぼ まゆみ)氏
静岡産業大学総合研究所 特別教授
2025年4月に97歳を迎えた、100歳時代の経営学、マーケティング学者。東京大学経済学部卒、カリフォルニア大学大学院MBA取得。(株)ブリヂストン経営情報部長、米国ブリヂストンの経営責任者、宣伝部長。1987年より静岡県立大学経営情報学部教授、学部長、学長補佐。静岡産業大学学長、ハーバード大学・ノースカロライナ大学客員研究員を歴任。最近では、静岡県をベースとした東海エリアに、未来型大学の創造や、医療産業の一大拠点「ファルマバレープロジェクト」の推進に取り組む。『大化けの極意』、『見・聞・録による石橋正二郎伝』などの他、千尾将のペンネームによる著書多数。

藤重 貞慶(ふじしげ さだよし)氏
公益社団法人日本マーケティング協会 会長
ライオン株式会社 特別顧問
1947年埼玉県生まれ。1969年慶應義塾大学商学部卒業、同年ライオン油脂(現ライオン)入社。1990年イノベーションルーム室長、1992年ロジスティックス推進部長、1996年取締役国際事業本部長、2000年常務取締役家庭品営業本部長などを経て、2004年代表取締役社長に就任。2012年代表取締役会長、2016年相談役、2021年より特別顧問。日本卓球協会会長やACジャパン理事長を歴任し、現在、日本マーケティング協会会長を務める。
One thought on “人間中心の豊かな社会を築く
マーケティングの哲学を/前編”
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