2024年11・12月号 
編集スタート! テーマ「下目線」

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巻頭言

今月のテーマ

下 目 線 New

今、ここを生きる

巻頭言

 上から見下す「上から目線」ではなく、下から見上げる「下から目線」でもなく、今回は「下目線」というテーマで企画しました。
 ここで言う「下目線」とは、普段の目線の高さや範囲から目線を下げることによって、「私たちの足元を見つめ直し、そこに広がる唯一無二の存在に気づき、価値を見出す力を養う目線」と定義したいと考えます。
 また、「下」にはよく目を凝らさないと見えないもの、五感を生かして想像しないと“見えないもの”も含まれます。下目線を持つことで、世界は拓かれ、既知だと思っていたことが未知に様変わりする驚きと喜びを、本号を通じて共有できればとても嬉しく思います。

 今回、5組の方々に取材·執筆のご協力をいただきました。砂浜美術館 塩崎様 大迫様、みなとラボ 田口様、ヤマカワ コピーライター 川原様、BISTRO下水道 加藤様、そして立教大学スポーツウエルネス学部 准教授 兼 生物インタープレナー 奇二様。
 お一人おひとりが情熱に溢れ、そしてやさしくも力強い目線でそれぞれのお立場から美しい持続可能な未来を見据えていらっしゃったのがとても印象的でした。人間が支配する世界ではなく、自然の循環サイクルの中で人間が生かされているこの世界で、本当の豊かさとはどんなことなのか。そして私たち一人ひとりに血が通い、ぬくもりある生き物であること。喜怒哀楽を感じる人間であるという、当たり前なことなのに忘れてしまいがちな大切な気づきを得る貴重な機会をいただきました。

 近年、SDGsだけでなくネイチャーポジティブ経営(2030年までに自然の損失を止めて上向きに転じること)が重要課題とされ、2023年9月には「TNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures、自然関連財務情報開示タスクフォース)」の最終提言が公開され、各組織で開示対応が進んでいます。
 「今、ここ(=地球、この時代)を生きる」私たちにとって大切なことは何か。そして、どう行動に移すのか。みなさまとご一緒に考え、明日をつくるマーケティング活動に活かすことができれば幸いです。

本誌編集委員 蛭子 彩華

寄稿

今、私たちにとって大切なことは何か New

〜砂浜から地球のことを考える〜

Text 塩崎 草太
特定非営利活動法人NPO 砂浜美術館 観光部 部長
Text 大迫 綾美
同 観光部チーフ ホエールウォッチング担当

「砂浜美術館」という考え方

「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です。」
 砂浜美術館は高知県黒潮町にある長さ4キロの砂浜を頭の中で美術館に見立て、様々なものを作品と捉えるという考え方からできた、建物のない美術館である。

「ものの見方を変えると、いろいろな発想がわいてくる。」
 砂浜に隣接する美しい松原は巨大な作品であり、沖に見えるクジラ、砂浜に咲くラッキョウの花、卵を産みにくるウミガメ、 砂浜をはだしで走り貝殻を探す子どもたち、流れ着く漂流物、波と風が砂浜にデザインする模様、砂浜に残った小鳥の足跡も作品である。このような見かたをすることで、今まで見過ごしてきた当たり前の風景や自然が、かけがえのない大切なものとなり、地域の資源に新しい価値が生み出すことができる。
 作品は 24 時間、365日展示され、時の流れるままに変化する。BGMは波の音。夜の照明は月の光。楽しみ方に際限はなく、人それぞれの「作品の楽しみ方」がここにはある。そしてなによりも砂浜美術館の数々の作品は、人が豊かにそして持続的に生きていくために大切なことを教えてくれ、心の中に無形の作品を創造させてくれる。

伝えたいのは考え方

 しかしながら、建物がないことから、この考え方は時に伝わりにくく、うまく伝える手段が必要となる。その手段のひとつが、毎年5月に開催されるイベント「Tシャツアート展」である。Tシャツにプリントされるデザインを公募し、砂浜に杭を立て、ロープを張り、洗濯物を干すようにTシャツを「ひらひら」するイベントである。この風景を創ることで、ここに美術館があることを多くの人に伝えることができる。また、その風景を通じて、ありのままの自然の豊かさや壮大さはもちろん、生態系における人間社会が抱える大きな問題も感じることができる。このイベントは今年で36回目を迎え、現在は人口1万人を下回ったいわゆる田舎に、ゴールデンウィーク期間中に約3万人が来場する町の一大イベントとなっている。このようなイベントを開催していることから、よく町おこし団体、もしくは砂浜をひとつのフィールドにしているので、環境保全団体と言われることもあるが、前者後者ともに「NO」である。誤解を生まないように説明すると、結果的にそういった側面が見え隠れすることは間違いではない。
 しかし砂浜美術館の目的は、「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です。」という“考え方”をより多くの人々に伝え、ともに楽しみながら共感することにある。昔、「砂浜しかない」と言われた町は、見かたを変えることで「砂浜がある」と言えるようになった。オリンピックのあり方も変わってきた近年、30数年前に『東京に東京ドームは造れても、長さ4キロの砂浜は国家予算を投じても造れないよね』と言い放った小さな町の考え方は、社会課題の多いこれからの世界に、課題解決の糸口となるメッセージを発信できるのではないかと考えている。

「ものの見方を変えると、いろいろな発想がわいてくる。」
 ちなみに砂浜美術館の館長は、土佐湾に暮らすカツオクジラが務めている。

ものの見方を変え、新たな価値となった
大方ホエールウォッチング

 砂浜美術館の館長であるカツオクジラに逢いに行く唯一の方法が大方ホエールウォッチングだ。大方ホエールウォッチングは、黒潮町(旧大方町)の漁師たちが集まり1989(平成元)年に大方遊漁船主会として始めた。
 ホエールウォッチングのスタートは漁獲高の減少がきっかけだった。当時、ホエールウォッチングという言葉は日本であまり知られていなかったが、船を持っている人は、たまに親戚を連れてクジラを見に行っていた。これを漁師の新たな漁業として1989年8月、日本では2番目にホエールウォッチング事業をスタートさせた。
 黒潮町に暮らす人からすると、当たり前すぎて、これが業になるのかという意見もあったそう。それもそのはず、学校や家の窓からクジラのしぶきが当たり前に毎日見え、漁師もクジラが潮を吹いている横で毎日のように漁を行っていたからだ。
 1994年には、世界で初めて「~漁師が呼びかける~国際ホエールウォッチング会議」が開催され、国際交流と情報交換、今後のホエールウォッチングのあり方などが話し合われた。スタート当時は、ホエールウォッチングのルールはなく、“クジラを見に人を積んでいく”という認識が強かった。その後、国際会議でも話された持続可能なホエールウォッチングとしていくため、小笠原ですでに構築されていた自主ルールを参考にして大方ホエールウォッチングも自主ルールを定めた。今では、その自主ルールだけにとどまらず、個体識別をできるだけ行い、その日に出逢えたクジラの様子を観察し性格や感情を読み取り、クジラに合わせた操船を行っている。これはホエールウォッチングがない日も沖に行き、漁をしながらでも普段からクジラを気にかけている黒潮町の漁師だからこそできる技術。これは若手漁師にも引き継がれ、ガイドから乗船客へもホエールウォッチングのあり方を伝えている。人とクジラは直接会話ができない。だからこそ人間側から歩み寄り相手を知る必要がある。

クジラのうんこプロジェクト
「見る」から「知る」ホエールウォッチングへ

 プロジェクト名がなかなかのパワーワードなおかげで年齢問わず面白がってくれる。「クジラのうんこプロジェクト」(2023年発足)とは、簡単に説明をするとクジラのうんこをすくい、解析、研究を行うことだ。きっかけは国立科学博物館(以下、科博)の方と知り合ったことからだ。土佐湾のクジラはずっとニタリクジラと呼ばれてきたが、カツオクジラなのでは?という噂がちらほらでていたため、真相を知るべく科博の先生方に勉強会を開いていただいた。そこでは現状はサンプルが少なく、クジラの種をはっきり断定できないためDNAを調べる必要があり、それには表皮(皮膚)が必要とのことだった。しかし今までホエールウォッチング中に剝離した表皮は見たことがなかった。唯一クジラの落とし物として見たことがあるのは「うんこ」だった。
 その後、ホエールウォッチング中にクジラのうんこの採取に成功し、DNA解析を進めると、カツオクジラであることが判明した。サンプル数増に向け「クジラのうんこプロジェクト」は進めていくが、今後はDNA解析だけでなくクジラのうんこがもたらす海の生態系やクジラの体調、海洋環境汚染などにも着目し研究を行っていく。真剣にうんこに向き合うことで、そこからさらに想像もしなかったものの見方が広がっている。
 プロジェクトが始まってからは調査船だけでなく、一般のお客さんが乗る定期便でもクジラのうんこを拾う。クジラのうんこのかたちは?くさい?拾ってどうする?クジラを見るだけで終わらないクジラを体感し、発想を広げるツアーとなった。
 クジラやイルカといった鯨類は私たちと同じ哺乳類だが、海に暮らしている彼らは、陸上に暮らしている私たち人間にとってはとても遠い存在に感じるが、ホエールウォッチングは遠い存在の彼らを身近にする場所である。土佐湾に定住していると言われるカツオクジラは陸から近い場所(沿岸域)で暮らしているため、とても人間の生活の影響を受けやすいと考えられている。これまで「見る」ことが重要視されてきたが、今後は好奇心を持って「知る」ことを目的としてホエールウォッチングを行うことで、より深く学び、私たち人間が彼らに注目するきっかけを作り、クジラから考える自然環境の保護や研究につながるきっかけを、このクジラのうんこプロジェクトを通して作れればと考えている。見かたを変えると、今まで見過ごしてきた「うんこ」は、私たちに様々なことを教えてくれる大切な「作品」となる。
 日々、私たちは新しい作品を創造していきたい。創造し、発信していくためにも新しい考え方・感性が必要である。そのために、いろんな人の新しい感性にも出会いながら、私たち自身が私たちの考え方と感性で作品を作っていきたいと思う。

塩崎 草太(しおざき そうた)氏
特定非営利活動法人NPO 砂浜美術館 観光部 部長

兵庫県出身。2016年に地域おこし協力隊として黒潮町へ。スポーツツーリズムの担当を経てNPO砂浜美術館に勤務。現在は観光部としてTシャツアート展などの砂浜美術館の考え方を伝えるイベント(シーサイドギャラリー)や大方ホエールウォッチングを担当。

大迫 綾美(おおさこ あやみ)氏
特定非営利活動法人NPO 砂浜美術館
観光部チーフ ホエールウォッチング担当

広島県出身。鯨類の勉強ができる専門学校卒業後、2014年よりNPO砂浜美術館へホエールウォッチングの担当として勤務。大方ホエールウォッチングでは、受け付け、ウォッチングガイド、出前授業、イベント企画、会計に至るまで、何でもこなすオールラウンドプレイヤー。日本クジライルカウォッチング協議会の事務局も務めている。

Coming Soon
次回の更新は 11月19日 12月03日 

INTERVIEW

私たちは海を知らなければならない

対話から“その先”を考える

田口 康大 氏
一般社団法人3710Lab(みなとラボ) 代表理事

Introduction
 「海と人とを学びでつなぐ」をテーマに次世代の教育をデザインする3710Lab(みなとラボ)の代表理事田口康大氏。地球の70%を覆う海、生物の90%は海の中にいること。そして、気候変動と海の問題が密接に関わっているという事実をどれだけの人が知っているでしょうか。教育人間学の専門でもある氏から、「これからの海と人の関わり合い」についてお話を伺いました。

 みなとラボは、「海と人とを学びでつなぐ」プラットフォーム。教育学者、科学者、エディター、デザイナーなど多様な専門家たちが、共に新しい学びを描き、深める取り組みを行っている。海と生きるとは何かという問いに向け、学校、地域、自治体に寄り添い、そして何よりも子どもたちと共に、さまざまなプログラムを実施している。

海の楽しさをもっと広げたい

───田口さんとのご縁は、昨年2023年10月に行われた『OCEAN BLINDNESS─私たちは海を知らない─』のエキシビションでした。冒頭のメッセージを拝見した時、大きな衝撃を受けました。(以下抜粋)

私たちは海を知らない。
では、なぜ知らなければならないのでしょうか?
海は、地球の70%を覆っていて、生物の90%は海の中にいます。地球上で生物が生存できる安定した機構を作り出し、その豊かな資源と多様性で経済と文化活動を支えています。

海は、人に影響を与え、人から影響を受けています。
私たちの生命と暮らしを支えているのは、「海」そのものなのです。

今年の夏は、昨年よりもさらに暑く、異常気象を肌で感じる厳しい夏となりました。
私たちの穏やかな日々の暮らし。地球上でそのあたりまえを享受することが、そろそろ本気で難しくなってきています。

この先、私たちはどのようにして未来を選び取り、答えをだしていくのか。
海を知ることは、明日を知ること。自分自身を知ることです。
自らが選んだと言える未来のために、私たちは海を学ぶ必要があるのです。

───今回の取材で、目線を海に向けてさらに考えを深められれば幸いです。そもそも田口さんは、なぜ海に関心を持たれたのでしょうか。

田口 きっかけは2011年3月11日の東日本大震災です。当時、僕はドイツに留学中で、教育哲学や教育人間学を専門に研究をしていたのですが、自身も東北出身であり、家族や友人たちも多く沿岸部に住んでいたので、震災を目の当たりにした時「今すぐに研究をやめなければいけない」と感じるほどの衝撃を受けました。そこでひとまず研究のことは横に置き、被災地の子どもたちへの学習支援活動をはじめました。
 そういった活動を継続していた2013年4月、ご縁あって東京大学の海洋教育センター(旧海洋教育促進研究センター)での研究活動の依頼をいただきました。海と教育のテーマは面白いなと思いつつも、正直私自身その時は具体的なイメージが湧いていませんでした。しかし、震災以来「これから先、海と人間がどう関わって生きていくのか」という問いをずっと持っていたので、お引き受けすることにしました。
 しかし、学校教育現場の中で「子どもたちにどのように海を伝えるか」を考えたとき、学習指導要領という大きな壁がありました。学習指導要領に則ってつくられた国語、算数、理科、社会などの教科書の中では、海は断片的にしか取り上げられていないのです。まずは総合的に海を学ぶことのできるモデルを作らなければと考え、各地域の自治体や学校と連携し、独自に事業を進めていきました。
 またその次に大きな壁を感じたのは、教育関係の事業をつくろうとすると「正しさ」が前提になってしまうことでした。「これは伝えなければいけない」「これにはこんな意味や意義がある」といった大人が考えた正しさで学びを縛りつけてしまうと、子どもたちがしんどくなってしまいます。そこで、大学教員の立場とは違う角度で「海の楽しさをもっと広げたい」という思いから、一般社団法人3710Lab(みなとラボ)を2016年に設立しました。

「対話を生み出す」みなとラボの活動

───「3710Lab(みなとラボ)」という名前の由来はどこから来ているのでしょうか。

田口 ネーミングには3つの意味合いがあります。まず1つ目は、陸と海の比率が3対7。3と7を足して全部で10になるという意味で「3710」です。2つ目は、それを「みなと(港)」と読ませるのは、港はいろいろな人たちが行き交い、集まる場所ですから、そういう場所になりたいという願いを込めました。最後に、海と関わるのは専門家だけでなく、誰しもに開かれているので、37で「み(ん)な」、10で「と」と読ませて「みんなと化学反応を起こそう」という思いが込められています。

───とても素敵な由来ですね!現在、みなとラボでは3つの柱①海の魅力を深める②人の考えを深める③学びのあり方を深める事業をされていますが、取り組みはどのように始めたのでしょうか。

田口 はじめは、渋谷の街を高校生たちと一緒に練り歩くプロジェクトでした。現在の渋谷と海の関係は遠いように感じるかもしれませんが、縄文時代、渋谷は海でした。「縄文海進」という現象で現在より海面が2~3m高かったのですが、歩いてよく観察すると、かつては海だったことが読み解けます。そういった自分たちにとって身近な場所や景色から、海とのつながりを学び、考えを深める試みを学校と連携して行いはじめました。
 そしてみなとラボにとって大きな転機となったのは、2018年に行った宮城県気仙沼市の高校生とのプロジェクトです。気仙沼市の沖合に大島という島があるのですが、そこに橋を架けたいという40年来の構想がありました。今は橋が架かっているのですが、当時の高校生たちが「橋が架かることによって本土とつながり、島の文化が失われてしまうのは嫌だ」と反対の声をあげていたのです。もちろん、彼らは橋が架かることによる利便性も十分理解しているわけですが、子どもたちはただ純粋な思いで自分たちの大島の文化を残したいと願っていたのです。
 僕は教育委員会から相談を受け、彼らの思いにどのように応えられるかを考えました。そこで、知人が運営している日本唯一の島マガジン『島へ。』という雑誌に、大島特集を高校生自ら作る企画ができないかと提案しました。コンテンツの企画、写真撮影、インタビュー、テキストを書いてそれをレイアウトするなど、プロの仕事同様の編集作業の全てを彼らが取り組み、その過程で自分たちが住む地域の文化や営みを知り、理解を深めます。そして、地域の大人たちとのコミュニケーションを生み出すことにもつなげたい思いがありました。
 実際に雑誌編集をし、出来上がった後の報告会で改めて高校生たちが「自分たちはこれらの大島の文化を未来に残したいんです」と発表したところ、たくさんの大人たちが勢いよく彼らの元にわーっと集まってきたのです。本当に感動的でした。「対話を生み出す」という軸をすごく大事にして取り組んでいたので、その大切さを改めて実感した瞬間でした。

「その先」を考え、みんなで仕組みをつくる

───田口さんがお話しする声からも、みなさんの熱量がとても伝わってきました。そこからさらに他の地域や学校との連携に広がっていったのですね。近年では企業との協働もありますね。

田口 みなとラボで企業と共に取り組む際、2つの方向性があると考えています。1つ目は、すでに取り組んでいることを「届ける」。2つ目は、共同開発で「つくる」ことです。一緒に仕組みづくりを考え、ビジョンを作り込む協働のあり方が多いと思います。
 例えば、海洋環境や海洋生物に深刻な影響を及ぼす海洋プラスチックは、その多くが「廃棄漁具」だと言われているのですが、三重県鳥羽市で廃棄プラスチックを再資源化している株式会社REMAREとの協働で、廃棄漁具を100%リサイクルしてつくった「umi frame」というフォトフレームがあります。これはデザイナー北川大輔さんにも協力いただき、4辺のパーツを紐で括ってシンプルに留めているつくりなのですが、この紐は漁網のほつれを修理する補修糸で、留め具は漁網をリサイクルしています。
 大企業でも廃棄漁具をリサイクルして何かをつくることはできると思いますが、僕らはそのディレクションや意義づけをして消費者に届けていくところのアイデア出しを得意としています。そして、ただ購入いただくだけでなく、その先をつくっていかなければという想いを常に持って取り組んでいます。

───「その先」とは、具体的にどういったことでしょうか。

田口 消費者は、海洋プラスチックごみをリサイクルした商品を買ったら、社会貢献の一役を担えたとそこで満足してしまいますよね。実際はその先のほうが大事で、そこから海へ意識を向けてもらう仕組みづくりをしなければなりません。このフォトフレームを部屋に置けば、目に入った時に廃棄漁具のリサイクルのことや、自分と海との接点を何度も思い返す「装置」になると考えています。あまり重くなり過ぎずに、フォトフレームがある意義への思いを取り戻していける。美しいアートやデザインの力で、日常生活の中にいかに溶け込ませるかが大事だなと感じています。

───みなとラボにとって「デザイン」が大切なキーワードになっている印象を持ちました。田口さんはデザインをどのように捉えていらっしゃいますか。

田口 難しい質問ですね。いろいろな考え方があると思いますが、僕がデザイナーと取り組む時、例えばプロダクトそのものをデザインしてくださいというお願いではなく「その先までを一緒に考えましょう」と言うと、関わる全員がポジティブに楽しく取り組めるなと感じています。
 プラスチックに関して言えば、デザイナーにとってはまるで夢のような素材だったわけです。思うように変形するので、自分の欲望を体現してくれる存在です。それが環境破壊に繋がっているとなると罪悪感を抱くこともあるかもしれませんが、プラスチックは私たちの生活を支えてもいるわけで、それを完全に否定するのも変な話ですから、一緒に仕組みづくりまで考えてデザインしていこうというのが僕らの合言葉になっています。
 そして作る人だけでなく、使う人もプラスチックの恩恵に預かっているので、みんなで考えればいい。そして、作って終わり、買って終わりと安易に終わらせないことも大切ですね。対話には終わりがないものですから、問いをみんなで共有し続け、常に仕組み作りまで考える姿勢は大切にしたいです。
 また、世界中の企業が今「海藻」に注目しています。海藻を増やせばそれがCO2を吸収し、ブルーカーボンとなるので、温暖化対策とビジネスの両輪で循環させる仕組みづくりが始まっていています。ヴィーガン人口が増えてきたこととも関係がありますが、食べ物という視点だけでなく海藻という“素材”を使って新しいプロダクトを開発する海藻テック、シーウィードテックという新しい言葉やビジネスも生まれていますね。海に目を向けてみると、海藻以外にこれまで見過ごしていた素材や技術が活かしきれていなかったとこに世界中が気づき始めています。まさにブルーオーシャンが広がっているのです。

※ブルーカーボンとは:2009年10月に国連環境計画(UNEP)の報告書において、藻場・浅場等の海洋生態系に取り込まれた(captured)炭素が「ブルーカーボン」と命名され、吸収源対策の新しい選択肢として提示。ブルーカーボンを隔離・貯留する海洋生態系として、海草藻場、海藻藻場、湿地・干潟、マングローブ林が挙げられ、これらは「ブルーカーボン生態系」と呼ばれる(国土交通省)

「共創」の「共」は、誰しもに開かれているということ

───海のことを知れば知るほど、未知なる世界と可能性に気付かされます。今号のテーマ「下目線」に対しては、率直にどのような印象を持たれましたか。

田口 実は僕の教育上のモットーは「ゆっくり急げ」に加えて、前に進まずに「いかに下に行くか」です。どうしても社会では、スピード感を持って前に進むことが前提になっているため、その場に立ち止まるのは怖く感じるかもしれませんが、焦らずに、ゆっくり足元を深く見渡してみると、実はそこにこそ自分たちがこれからの時代に生きていくための術や方法が見つかったりします。
 また、海や環境問題に目を向けることも大切ですが、「実際に海に行ってみる」だけでいろんな思いが湧いてくると思います。そこで自分の中に芽生えた感情に気づくことが大事で、そこから“自分と海とのつながり”が自然と広がっていく。近年、人類学だけでなく「歩くこと」や「石」がブームになっているのを見ると、「自分たちが立っているところは、果たして一体何なのか」を確認したいタイミングなのではないかと感じます。
 また別の視点となりますが、下目線の中には「教育」が含まれていると感じています。教育というのは、人間そして社会の土台で、目には見えない分厚い層をつくり、そして下支えする重要な役割を担っていると思います。マーケティング業界のみなさんが独自に持っている企業のリソースをどんな形で教育に溜め込んでいくか。そんな視点で考えてみると、教育現場に自分たちが何かを届けるだけでなく、一緒に何かやっていく「共創」が生まれるのではないかと思います。「共(Public)」は、誰しもに開かれていることであり、それは社会の土台としての教育につながっていきますし、決して競争になりません。みなとラボのリソースを生かしながら、海と人と学びの楽しさをご一緒に広げていけたら嬉しいです。

───本号の記事をきっかけに、新しい化学反応が起こることを願っています。本日は素晴らしいお話を本当にありがとうございました。

(Interviewer:蛭子 彩華 本誌編集委員)

田口 康大(たぐち こうだい)
一般社団法人3710Lab(みなとラボ) 代表理事

東京大学大学院教育学研究科附属海洋教育センター特任講師。

青森県生まれ。秋田県を経て、宮城県仙台市で育つ。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。2013年、東京大学大学院教育学研究科に特任講師として着任。教育学・教育人間学を専門とし、人間と教育との関係について学際的に研究している。現在は、学校の授業デザインや、学校を軸にした地域づくりに取り組み、新しい教育のあり方を探求している。座右の銘は、ゆっくり急げ(Festina lente)。

みなとラボ

寄稿

困難の乗り切り方のヒントは植物の生き方の中に

庄内の豪雨災害の地を訪れて

Text 川原 綾子
ヤマカワ コピーライター/東京農業大学 地域環境科学部 地域創成科学科 2年

Introduction
 四半世紀勤めたデザイン会社を退職し、独立と同時に、農学系の大学の学生となった。いま私は若い学生に混じって地域創成を学んでいる。地域創成を冠した学科は、全国に増えつつあるが、私の通う学科は自然を起点にしていることが特徴だ。じつは理系科目はとても不得手で、入学したときから苦労がたえない。しかし、少しずつ自然の世界の扉を開くことで、日々、様々な発見を得ている。今日はそんな発見のひとつについてお伝えできればと思う。

豪雨がもたらした山と川の大災害

 大学生の夏季休暇は約2ヶ月ある。前期の試験を終えるとすぐ、私は東京から山形県酒田市の山間部、八幡地域大沢地区に向かった。東京で学生生活を送りながらも、縁あってこの地区の農村RMO(農村型地域運営組織)の事務局を担当している。もともと夏の間にこの地区を訪れる予定はあったが、時期を少し早めた。なぜなら7月下旬の豪雨によって、日本海側の山形の庄内エリアと秋田が大きな被害を受けたからだ。
 米どころとして知られる庄内を地図で見ると、主に平野部と山間部に分かれる。大沢地区は酒田市の山間部に位置し、山と山との間に流れる、鳥海山系の清流のひとつ「荒瀬川」を中心に集落が形成されている。子どもたちが川遊びもできる普段は穏やかな川だが、氾濫がおきた。さらにいくつもの箇所で、土砂崩れもあった。被災した場所を案内していただいたが、流木が絡みつき一部が崩落した橋、青々とした稲が泥に埋まってしまった田など、一年前の訪問時にはおよそ想像ができない風景が目の前に広がっていてショックを受けた。この豪雨による災害は「激甚災害」にも指定されている。
 被害は家の中にも及ぶ。浸水した住宅では、粒子の細かい泥が押し入れの中、引き出しの中にまでみっちりと流れ込んでいた。浸水とは水の被害だけではなく、泥の被害であることも知った。荒瀬川は昔ながらの蛇行した川だ。これまでも溢れることはあったそうだが、70代、80代の方に聞いても「こんな大きな被害ははじめてだ」と言う。この夏の異常な暑さも含め、気候変動は確かに起こっているということを痛感することになった。1週間の滞在の間、少しでもできることをと、私は床下の泥かきや仮設トイレの掃除などをさせていただいて東京に帰ってきた。
 1ヶ月後また大沢地区を訪れると、家の周辺から土砂が驚くほどきれいに取り除かれていた。連日あちこちから来てくださるボランティアたちの力が大きい。彼らがはつらつと働く姿は、住民の方に元気も与えているように感じた。しかし地域全体を見渡すと橋や道路の一部は崩落したまま。田んぼの中の泥や流木まで手がまわらず、そのまま放置されているところも多かった。12月になると雪が降りはじめる。それまでに、どれだけ片付けが進められるかが差し迫った課題だ。酒田市ではまだまだボランティア募集中である。秋田·山形の豪雨災害は過ぎ去ったものと思っている人も多いが、この地域の非日常はまだ続いている。

氾濫から約1週間後の荒瀬川。田が川に削り取られてしまった。
被災から約1週間後の民家。仏壇のかなり高い位置まで泥の形跡が見られた。

植物の生き方と人の生き方の重なり

 ところでこの地域に通ってみて、自分の中で確認ができたことがある。それは「人間の社会も自然の世界もやはり似ているところがある」ということだ。学生となり、自然の世界を知るにつれ、植物の生き方には、人間の生き方のヒントになるようなところがあると感じていた。もちろん人の感情を植物は持ち合わせていない。長年コミュニケーションを仕事にしてきたために、つい擬人化して考えてしまうのかもしれない。しかし、困難に直面しながらもその場所でたくましく生きていこうとする地域の人々の姿は、より一層、地に根を張り、工夫を凝らして生きている植物の姿に重なった。植物に詳しい人には、無理な結びつけだと思われるかもしれないが、ひとつの考えとして捉えていただければと思う。
 入学して最初に学んだ「基礎植物学」で聞いた話だ。マツやスギなど寒い地域が得意な針葉樹は裸子植物で、植物史の中では古いタイプとされている。それに対して広葉樹は被子植物で、針葉樹の進化形だ。広葉樹は、茎の中に太い水のパイプを持ち、根から水をどんどん吸い上げる。このパイプを「道管」という。それに対して針葉樹には道管がなく、細く頼りない「仮道管」しか持っていない。しかし極寒の環境下では、この仮道管が役にたつ。太い道管の水が凍ってしまうと水が溶け出した時に気泡が生まれ、この水の道がつまってしまう。針葉樹の仮道管は、時間がかかるが、冬でも水を確かに行き渡らせることができるのだ。少々話がややこしくなってしまったが「厳しい環境下では、古いシンプルな手法が役に立つ」ということだ。
 八幡地域でも豪雨災害後に“昔ながら”が役に立った。まず「山水道(やますいどう)」である。このあたりの世帯の台所には、水道蛇口がふたつある。普通の水道と、山水道と呼ばれる、沢の水をひいた昔からある水道だ。ちなみに以前空き家となっているお宅に宿泊させて頂いたことがあるが、この水がとんでもなくおいしかった。豪雨の後には、数日間断水が続いた。水は飲用だけでなく、トイレの水を流すのにも使う。この時、山水道が使えた家は、断水時に比較的困らなかったと聞いた。
 「農道」もそうだ。川の氾濫により、国道に土砂や流木が積み重なり、道路が通行止めになった。川の上流は、地域の中で最も大きな被害を受けた場所であったが、この場所に行ける1本の農道があった。クルマ1台がようやく通れるこの道があったことで、孤立から免れることができた。
 「住民がお互いをよく知っている」ことも“昔ながら”かもしれない。誰がどこに住み、どんな家族構成で、どんな車に乗っているかまで知っていることは、面倒で煩わしいと感じる人もいるかもしれない。しかし大きな困難に出会った時、人は協力しなければ前に進むことはできない。物資の配布の拠点にもなったコミュニティセンターでは、情報の拠点にもなり、世帯の被害状況を把握し、住民が積極的に災害対応を行っていた。また、名前を呼び、互いを労りあっていた。便利な暮らしと孤独はとなりあわせだ。人とつながり合わなくても生活が成り立つ都会にいくほど、こうした優しい人間関係を持っている人は少ないのではないだろうか。

人の多様性のネットワークを育む

 自然を手本に、これから構築しなければならないものもある。生き物や植物の多様性を育むためには、他の地域とゆるやかにつながり、その間を生き物が行き来することで、豊かな自然環境を保たれる「緑のネットワーク」が必要だと言われているが、人口約500人の大沢地区においても「人の多様性のネットワーク」が、さらに必要となるだろう。
 農村RMO発足の中心人物で、私を呼んでくれた、阿部彩人氏(COCOSATO代表)は、この地のネットワークを広げようと奔走している一人だ。地域おこし協力隊や集落支援員の経験を持ち、地域の産品販売やイベントの企画制作を行ってきた阿部氏は、豪雨直後から被害の様子と復興の過程をYouTubeで配信。この動画をチャンネル全体でこれまで通算約11万人が視聴している。また、近隣の大学生や農家インスタグラマーの20代のメンバーたちとともに「酒田やわた未来会議(仮)」を立ち上げ、様々な支援の窓口を作っている。9月中旬はこの組織で泥や流木が入ったコンバインでは作業ができない田での、手収穫作業ボランティアの受け入れをはじめ、拡散力のある彼らの発信を見て、子どもから大人まで多くの人が収穫に参加した。現地で、遠隔で。地域を中心にした様々なつながりのネットワークが、さらに大きく広がっていくことが期待される。
 さて、これから私がこの多様性のネットワークの一員として行いたいのが「種子散布」だ。植物は様々な手をつかって、自分のタネを散布しようとする。河原などを歩くと、センダングサやオナモミなど「ひっつきむし」が服について困るが、あれも人や動物を介して、種子を遠くへと運ばせようとしている植物の生き残りの知恵だ。豪雨はわずか数日のことだが、復興活動はこれから長く続く。豪雨災害で起きたこと、進行形の復興の様子を、ひっつきむしになって人に伝えることの役に立ちたい。日本全国で、これまでの想像を超える自然災害が起きている。今回の豪雨災害を伝えることは、この地域のためになるだけでなく、“もしも”を抱えるすべての場所の“いざ”に生かされるはずだ。
 12月には、昨年アウトドア施設「鳥海高原家族旅行村」で行った、芸術祭「庄内 風と土の美術館」を酒田市の街の中で開催する。私はこの芸術祭の運営にも参加しているが、今年はアーティストたちの作品に混じって、今回の豪雨災害を伝える展示を阿部氏らとともに作っていく予定だ。豪雨災害をきっかけに、この地の自然の豊かさや文化の豊かさも伝えられたらとも思う。ピンチはチャンスにもなる。豪雨災害から生まれたタネが様々な形で育ってゆくことを願っている。

阿部彩人氏が代表をつとめる「酒田やわた未来会議(仮称)」。20代から40代が中心となり、地域の未来のために活動中。
昨年は野外で開催した芸術祭を今年は街中で。豪雨災害を伝える展示も行う予定。

川原 綾子(かわはら りょうこ)氏
ヤマカワ コピーライター
東京農業大学 地域環境科学部 地域創成科学科 2年

日本デザインセンターを経て、2023年ヤマカワ設立。これまで暮らしに根ざした企業のCI/VI開発等に深く関わる。現在、学部生として地域創成を学びながら、山形県酒田市など地域案件にも積極的に取り組んでいる。東京コピーライターズクラブ会員。

INTERVIEW

自立した循環システムをつくる
BISTRO下水道を世界に

加藤 裕之 氏
東京大学 院都市工学科・下水道システムイノベーション研究室 特任准教授

 私たちの暮らしに必要不可欠なインフラでありながら、流してしまうと見えなくなって、なかなか考える機会もない下水道。この下水道の汚泥を有効活用し、都市生活と食、農林水産業をつなぐ循環システムを提案する加藤裕之先生に、プロジェクトの特色や強み、今後の展望などについてお話を伺いました。

BISTRO下水道とは、下水道から出た資源(処理水、肥料、熱、CO2)を有効活用して食材を生産する取り組み。国土交通省と日本下水道協会が主導して2013年にスタートし、下水道資源を有効利用した食材は「じゅんかん育ち」のブランド名で市場にも出回っている。循環型社会の構築に寄与しながら、安全で美味しい食材をつくる手法として世界から注目されている。

下水汚泥の肥料化を進めるBISTRO下水道

───下水道というのは一般消費者の目線だとなかなか把握しづらい存在だと思うのですが、加藤先生がこの仕組みづくりに取り組まれた原点・着想の始まりはどのようなことだったのですか。

加藤 そうですね。まず、これからは循環型社会の構築が世界のキーワードです。水も食もエネルギーも10年以上前から世界的な課題になっています。下水道というのは、汚れた水をきれいにして川や海に帰すわけですが、実はきれいにするということは、窒素やリンといったさまざまな栄養分を漉し取るということなんです。濃し取られた以外のところがきれいな水となって流れていく。残った栄養分はある意味資源ですよね。これを循環型社会の貢献のために何か使えないかなという思いはずっと持っていました。
 BISTRO下水道の仕組みを立ち上げたのは、日本の水インフラ技術を世界に輸出しようという水ビジネスを担当していたときです。そのときに、日本の水技術の強みは何だろうと考えたのですが、もともと日本では発酵という美術・文化がある、江戸時代にはし尿を肥料として使っていた文化もありました。意外に思われるかもしれませんが、下水汚泥を肥料にするのは発酵技術なんですよ。そういった文化や技術を世界的な強みにして、日本の水インフラを海外に展開していこうと考えたわけです。地域の循環という役割ももちろんですが、世界的には食べるものがなくなる、エネルギーが足りなくなるというのは見えていましたから、“下水汚泥の肥料化”という技術で世界に貢献していけると思いました。

───BISTRO下水道のネーミングはどのような理由からでしょう。

加藤 下水汚泥の有効利用には、埋め立てに使ったりセメント材料として再利用したりといった方法があります。しかし、下水道管理者が発生した汚泥を埋め立てる、セメント会社に引き取ってもらうなどで処分して自分の領地から離してしまうと、それで話が終わってしまいます。誰かに引き取ってもらえばいいやと。
 なぜBISTRO(食べるもの)という名前をつけたかというと、手放して終わりではなくて、循環型社会をつくるには、“次にバトンを受け取る人のことまでを考えて”やらないといけない。例えば、受け取りやすいような形にするといったことですね。汚泥の処分というレベルを超えて、肥料をつくって、その肥料でできた作物で、どんな食べ物・料理をつくるのか。そこまで思いを馳せるべきじゃないかということで、食べるほうの「BISTRO」というワードを使ったわけです。

つながることで生まれるイノベーション

───加藤先生は、この取り組みを2013年から始動されていて、この10年間でさまざまな地域に広がりつつありますね。

加藤 私が国土交通省にいたときに、全国の地方公共団体の集まりである日本下水道協会と協力関係を結んで、全国の自治体に情報発信しながらスタートさせました。
 実は、最初は私も知らなかったのですが、佐賀市での取り組みが素晴らしく先進的で、その出合いが大きかったですね。佐賀市では有明海で海苔の養殖が盛んですが、それには窒素などの栄養分が必要なんですね。なので、特に海苔が育つ冬場なにはわざと処理のレベルを下げて窒素分を海に供給しているんです。一方で、汚泥はコンポストにして、肥料にして、地域の方に安く提供している、そういう地域内の循環型の形を構築されていました。私は、このモデルがどうしてできたんだろうと調べていきながら、それを伝道師みたいな形でいろいろなところにお伝えしようと考えたわけです。

───下水道と海苔の養殖とは意外なつながりですよね。

加藤 その通りです。この海苔養殖のように、下水道というと都市の施設であって、農林水産業とは違う世界だと考えられていたのですが、実は下水処理場が基点となって、都市生活と農林水産業がつながったということです。両者の真ん中に下水処理場があるというふうに思っていただいていいと思います。

───下水道コンポストは化学肥料よりもコスト安ですし、土そのものや作物の発育にも多くのメリットがあるようですね。その意味では、BISTRO下水道はかなりイノベーションな取り組みですよね。

加藤 本当にイノベーションですよね。化学肥料はどうしても海外依存になりますから、これからの水や食の安全保障を考えると、国としても自立性を上げないといけない。もちろん、化学肥料はすごい大発明だったわけですが、いろいろと障害が出てきていますから、もう一度原点に返るというイノベーションでもある。日本では江戸時代でももともとやっていたコンセプトですから、技術自体は新しくなっていますが、昔の考え方、思想に戻そうよということなのかもしれませんね。

───実際に取り組みを進めていく中での難しさはありましたか。

加藤 そうですね、難しさは確かにありましたね。それは下水道に係るプレーヤーが多いということです。まず、下水を出す使用者、下水道管理者、コンポストを買ってもらって使う農家、その農作物を買ってくれる消費者といったように循環になっています。すごくステークホルダーが多いので、みんなが理解してやらないと成立しないのです。
 その輪を成立するためのポイントは、やはり“次に使う人のことを考える”ということです。下水道管理者も農家が使いやすいペレットのような形で渡す、農家も消費者にしっかりPRをして買ってもらう。消費者も変なものを下水に流さないように注意するといったように、それぞれにとってメリットがありつつ、みんなが“次の人のことを考えてやるいますが循環型の仕組みのポイントかなと思います。いわば、心がけの世界ですよね。それがないと循環というのはなかなか難しいですよね。

───そのような人と人の輪、つながりも大事ですよね。

加藤 そうですね。プロジェクトが拡がる過程においても、最初に共感してくれる数人がいて、そこから、じゃあやってみようかと農家の人が現れて、そうやって普及していきましたね。ですから最初は国土交通省の周りで、そういうことが好きそうな人を徹底的に探しました。通常の仕事になっていないものを新しいプロジェクトにするときは、仲間を相当吟味して選ぶことです。周りの100人はほとんど反対側なわけですから、組織を越えてやる気のある仲間を探すこと一番のポイントですね。
 それも、“変わった人間つながり”がイノベーションのポイントですね。やはり新しいイノベーションを起こす、何か化学反応を起こして広げるには異質の人間との結びつきが大事ですね。

───変わり者がイノベーティブな人材ということですか。

加藤 はい。イノベーティブな人材というのは変わり者です。前例にとらわれずに、楽しいことを追求し続けられる人、感性が高い人ですね。あとは、他の異分野であっても自分からどんどんノックしていけるような人。イノベーションは異分野との融合ですから、待っていないでどんどん行ける人だと思いますね。

自立した地域の循環システムで世界に貢献

───お話が前後しますが、2011年の東日本大震災の際には現地リーダーとして被災地の状況にも触れられておられたと思いますが、BISTRO下水道の構想になにか刺激を与えましたか。

加藤 現地に行って感じたのは、あのとき東日本にはエネルギーがまず来なかったし、食べる物も足りなかった。なぜそうなっったかというと、地域が自立していないからです。他から全部持ってくることでやっと成立していた。それが途絶えると、エネルギーもない、水もない、そういう状況になる。あのときに、地域で自立するということがすごく重要だと思い、ますます地域の循環に傾倒していったということだと思います。
 下水汚泥は、肥料化を通じて食にできますし、発酵させるとメランガスが出て、それを使うとガス発電もできます。エネルギーにも食にもなるので、震災があったときには地域自立に大きく貢献しますから、そういう思いを強くしましたね。

───そのような貴重なご経験をされて、2020年に東京大学下水道システムイノベーション研究室を新設された。

加藤 私の場合はもともと教員ではなくて、社会経験もありましたから、自分の役割としては、大学のような研究機関と社会をつなぐところにあると感じていました。なので、この研究室も、社会と研究機関の接点をねらったんです。そうすると、研究室での研究成果を社会に広げるにはどうしたらいいかという視点になってきますから、目的は何だろうか、どういうビジョンでやるのか、果たして社会の目的に合っているのかといったところをやりたかったんですね。

───これから先の10年、どのような未来を見据えておられますか。

加藤 今は、BISTRO下水道をまずは全国的に普及させたいという思いがありますね。あとは、このモデルを海外に持っていきたいと思っています。このモデルを世界に持っていって、世界の食で困っている地域の一つのモデルにしていきたいという思いがもともとありましたから。
 例えばインドネシアです。ジャカルタは1,000万都市なのですが、本格的な下水処理場がまだないんです。下水道を整備して暮らしやすい環境をつくるとともに、人口増に対応した食の世界をつくりたいです。アジアを中心として稲作文化のところに展開したいという思いマありますね。もちろん、欧米諸国や中国など水ビジネスの競合相手は多いのですが、私たちは、単なる下水道技術ですというよりは、地域の循環システムを構築しませんかという言い方をして貢献したいと考えています。

足元を見て目に見えない価値を拾う

───最後にお聞きしたいのですが、今号のテーマである「下目線」について感じられることはありますか。

加藤 “下を向け”というのは、下水道にはズバリあてはまりますよ。下水道の世界では、下を向いて歩こうというくらいですから(笑)。あとは、実はヒントというのは現場に行って、足元を見ることだと思いますねね。どうしても先ばかりを見てしまうことが多いわけですが、そうではなくて、フィールドに足を運んで、そこの何かを感じることが大切なんでしょうね。そこにヒントがあるような気がしますね。
 別の言い方をするなら、やはり目に見えないものが大事ですね。スピリチュアルな世界になってしまうかもしれませんが、それをお互いが大事にしたほうがいいですね。例えば、片付けで一世を風靡した「こんまり」さん。彼女が世界で支持されたのは、片づけという目に見えるものではなくて、わくわくやときめきといった、目に見えない価値のほうですよね。そちらのほうが大事だということです。それをもう一度振り返るべきですね。

───なるほど。本日はありがとうございました。

(Interviewer:蛭子 彩華 本誌編集委員)

*お顔写真とプロフィール文はネットからの仮置きです。

加藤 裕之(かとう ひろゆき)氏
東京大学 院都市工学科・下水道システムイノベーション研究室 特任准教授

博士(環境科学・東北大学)、東北大学特任教授(客員)、内閣府地域活性化伝道師、国土交通省で下水道行政に従事,その後㈱日水コンを経て2020年より現職。
専門分野は、上下水道政策、官民連携、下水道資源の農業利用、都市浸水、 DXなど。
著書に、『フランスの上下水道経営』(代表執筆者・日本水道新聞社)、『新しい上下水道・再構築と産業化』(共著・中央経済社)など。

INTERVIEW

「自然」「アート」「教育」のシナジーで
豊かな環境教育の伝道者となる

奇二 正彦 氏
立教大学 スポーツウエルネス学部 スポーツウエルネス学科 准教授

 人と自然の共生をテーマに、自然体験とスピリチュアリティの醸成に関する研究を行なうとともに、サステナブル社会と環境教育にも深い知見をお持ちの奇二正彦先生に、現在に至るさまざまなご活動の内容や生物多様性の重要性などについてお話を伺いました。

自演体験とアート体験が紡ぐもの

───まず奇二さんが、自然体験とスピリチュアリティ、サステナブルと環境教育という二つの研究テーマにたどり着いた経緯をお聞かせいただけますか。

奇二 実は学生のときからそのことで頭がいっぱいだったんです。他の学生が皆、大学へ入って、就職して、安定を求める、理由はわからないんですが、そこにすごく違和感がありました。それでどうしようかなと迷っているところで、とても助けられたのが自然体験とアートの体験だったんです。
 当時、僕は文学部の学生で、もともとアイヌやネイティブインディアンなど、現代人じゃない生き方をしている人たちに興味があったのですが、文化人類学の授業で、チベットの仏教僧が曼荼羅を砂で描く宗教画の存在を知りました。現代アートは作ってマーケティングして売るわけですが、その砂絵は儀式が終わったら川に流すんですよ。つまり、描くプロセスの中で得られる宗教的体験にもっとも重きを置いている。何かそこに、日々の小さい自分じゃないものとつながっていると直感し、そちら側の世界にものすごく魅力を感じたんですね。
 その後、カナダのユーコン川に旅をしたのですが、そこは地平線まで人工物が何もない森が人がっている。そんな自然は見たことがなかった。ここでケガして動けなくなったら死ぬんだなと実感しました。生と死との隣り合わせの中でいると、小さな価値観など消えていってしまわけですね。
 アートの体験で言えば、描いていると自我がなくなってきて自己超越体験みたいなことができたんですね。イニシエーションというわけではないのですが、自分なりの大人になるということの自意識みたいなことを本能的に欲していたように感じますね。

───自然体験もアート体験も、なにか原体験のような出来事があったのでしょうか。

奇二 考えてみれば原体験があったのでしょうね。父親は教員でしたが、もともとは登山家になりたかった人でした。戦争経験者でもあったので、とにかく小さいころからサバイバルなことをたたき込まれました。生き物のハンティングの仕方や海での泳ぎ方、キャンプの仕方など、自然の中での遊びをたくさん教わっていました。
 アートの原体験としては、芸術家の多い伊豆の山奥に住んでいたので、僕の遊び場は近所の森の中に住んでいる陶芸家と画家のご夫婦の家でした。僕はいつも遊びに行って、陶芸をやらせてもらったり、絵を描かせてもらったりしていました。やはり“三つ子の魂百まで”ですかね。自然体験やアート体験で、自分を超越するような体験や単なる遊びにのめり込むことが本当に自分に影響しているなと思っています。

インタープリターという仕事に出合う

───大学を卒業された後、次第に自然とのかかわりがお仕事になっていく。

奇二 大学を卒業しても就職できるわけではないので、とりあえずアーティストになろうと思っていました。アートで僕が生み出すものは何だろうと試してみたくなって、それなら英語も学べる海外だということでニュージーランドに渡り、語学学校半年、アートスクール1年半の2年間いました。その後帰国したのですが、たまたま本屋で『自然と関わる仕事』という本に出会ったんです。林業、漁業といった自然に関わる仕事の中に「インタープリター」という職業があったんです。自然をガイドする人、自然と人の通訳者といった仕事です。これは面白いと思い、すぐに連絡先に電話して次の日から大阪のセミナーに参加しました。今までの自分(の関心ごとや経験)と関わる仕事だなと直感しました。

───実際にそのようなお仕事が見つかったのですか。

奇二 まず、日本環境教育フォーラム(JEEF)の自然学校指導者養成講座で座学とインターンをやり、そこから岐阜の自然学校で働き始めました。ここでの経験は楽しかったし、今の自分にものすごく生きている経験でしたね。ここで出会った小河原先生は、他の先生のような単なる自然体験を教えるだけではなくて、きちんと現場を調査して、自然も歴史も把握して、それをもとにインタープリテーションするという科学的手法をしっかり持っておられた。僕に足りないものだと思い、2年間みっちり学びました。
 その後、もっと深い自然に行きたいと思って、平野伸明さんという動物写真家の助手として、秋田の森吉ブナ林の中の管理小屋で、電気も水も通っていない寝袋生活を数年やりました。もう、ウォールデンの『森の生活』ですよ。落葉広葉樹の森が冬には全部木の葉っぱが落ちて見通せるようなところなんて見たこともなかった。ものすごく面白くて、そこで野生動物の生態をつぶさに観察していました。

───環境教育のほうにもなにか原体験があるのですか。

奇二 それは2005年の愛知万博ですね。。各国や企業のパビリオンのほかに、地球市民村ができて、そこに岐阜の自然学校にかかわるNPOも入ることになったんです。そこで、英語ができるやつ、パビリオンデザインができるやつ、インタープリテーションができるやつということで僕に白羽の矢が立ったんです。
 そこには、世界中からNPO、NGOの人たちが集まっている。そして、子どもたちや女性の人権をどう守るか、水問題がどうだと、ものすごく怒っている。これはカルチャーショックでした。彼らは全部自分以外の人たち、自分以外の生命のために怒っていたんですよ。僕もうっすらとは思っていたことをガチでやっている人たちを見て、「ここだ!」と思いました。

───その体験はお仕事に中に生かされましたか。

奇二 そうですね。その後、コンサルタント時代が8年ほど続くのですが、都市公園の仕事や企業のCSR関連の仕事をやりました。ちょうど企業がカーボンオフセットや生物多様性にも関心を抱き始めたころで、特にデベロッパーさんが熱心でした。ビルを建てると必ず一定の緑地が必要ですから、そこで勝負したいということでしたね。
 例えばマンションのCSRですと、マンションの周辺を調査します。神社や川、緑地などを調べる、同時に、生息している生き物も調べる、そんな生き物がたくさん来るような緑地を計画すると、それによってマンションが地域のエコロジカルネットワークを生み出す一拠点になれるわけです。加えて、入居者にインタープリテーションもやる。一緒に街ブラをして自然ガイドもやるわけです。自分たちの武器を使ってビジネスをして、ビジネスを通して社会課題の解決をどんどん改善していくというモードに入っていきました。

ネイチャーポジティブと生物多様性のために

───今は大学での教鞭をベースにされているわけですが、外の企業さんとのつながりはあるのですか。

奇二 もちろんです。現在はネイチャーポジティブの活動が多いですね。例えば電鉄会社さんが管理している里山が荒れていて、それを何とか再生しつつ、お客さまにもそれを楽しんでほしいというお話でした。また、長野県の生坂村は、脱炭素先行地域なのですが、さらに生物多様性の方向にも広げたいと考えています。ですから、現地の人は過疎化でいないので、観光客に保全のプログラムをやってもらおうと考えました。リジェネラティブ・ツーリズムという自然再生型観光を立ち上げました。今では大変な人気となっていますよ。

───企業を巻き込むコツはあるのですか。

奇二 まずは経営者が理解すると一発でコトは進みます。実際に今、企業の経営者向けのマインドセットプログラムをつくっているところです。例えば、那須野牧場の案件では、僕らが調査に入って、もっとこんなビオトープを作ったらより豊かになります、生物多様性が豊かになりますと提案したら、すぐに予算を付けてくれた。社員に有給休暇を取らせて一緒につくる。今は、カフェやコーヒー焙煎所、チョコレート工房などで観光地化して大変な賑わいです。もちろん、インナーブランディングをやって社員の意識が高くないと、いくらトップダウンでやっても会社としては健全ではないですが、経営トップの意識改革は大切です。

───生物多様性もわかったようで実はよく理解できない概念ですよね。

奇二 生物多様性は3つの定義で説明されます。1個目が種の多様性。いろいろな種類の生き物が地球上にいっぱいいるということです。2個目が生態系の多様性で、食物連鎖の話はご存じかと思いますが、それだけではなく、レンガの隙間にコウモリが巣を作っている、石の下にダンゴムシがいるといった無機物も有機物も含めたつながりを指します。3番目が遺伝子の多様性です。ホモサピエンスの中にもがんにかかりやすい人、かかりにくい人がいますし、温暖化に強い人、弱い人もいます。同じ種類でも遺伝子を多様にしておくことで種として生き延びる確率が上がるということです。多様な遺伝子から薬などをつくるとしたら、ある植物が絶滅してしまったら、そこから作れたかもしれない特効薬がもはやつくれないとなってしまうのです。
 そのような生物多様性から得られる恵みのことを生態系サービスと言います。1番目が供給サービス。僕らの服も水も薬も木材も自然からの資源です。我々は自然から非常に多くの供給を受けているということですね。2番目が調節サービス。空気や海によって暑さも湿度も調節されています。あるいは森に雨が降ってもスポンジのように貯えてくれるので洪水も起きにくいし、おいしい水も飲める。3番目が文化サービスで、そこにスピリチュアルも入ります。カヤックをしたら気持ちがいいと思うし、年中行事など自然からインスピレーションを得た神話や文化、祭りなどもたくさんあります。最後の4番目が生息・生育地サービス。あらゆる生物の生態系やライフサイクルを維持する、先の3つを担保するベースとなる恵みです。
 現在、地球上で生み出されてるGDPの半分くらいは、直接的に自然の恵みをもとにして生み出されていると言われています。

「下目線」で自然を見つめる

───今号は「下目線」というテーマなのですが、そう聞いて感じられたことは何かございますか。

奇二 僕は、もとから経済物質至上主義的な流れから下りた人間と思っていますので、そのこと自体が下目線なのかなという感じはしました。今の現代社会で言う上目線が、経済物質至上主義的な豊かさだとするならば、最初からそこに違和感がありましたから。僕の下目線を醸成したのは、やはり自然体験とアート体験でしたね。
 僕の研究内容から言うと、先ほどの自然からの恵みの部分を下支えしているのは、実は地面やその中にいる何億匹という分解者のおかげなのです。自然界はすべてのものが全部土にかえって、あらためて植物という生産者がそれによって生かされます。現代社会は、この循環をうまく始めればもっとよく回り始めるのだと思うのですが、このような発想もいわば下目線と言ってもいいかもしれませんね。

───最後に、日々マーケティング活動に取り組まれている読者の方々にメッセージをお願いできますか。

奇二 ますは自然の中に行ってください。豊かな自然はまだたくさんありますので、それを体験しない手はありません。そうすればスピリチュアリティが勝手に発現するんですよ。スピリチュアリティは、日々の生活では発現しない可能性がありますが、大自然に行ったりして非日常的な自然体験をすると自分の中に何か変化が起こるかもしれない。雄大な夕日、朝日、超星空、巨木、そういう大自然にぜひ行ってほしいです。
 あとは、かつてベストセラーになった『里山資本主義』という本に載っていた概念ですが、我々は大きな社会システムの中で自然にかえすということが本当に下手なので、小さいシステム=サブシステムでやっていこうということが提案されていました。僕もやっていますが、自分たちの生ごみをコンポストにして土にするといった小さなサブシステムを回していく、小さな循環を回していくことから始めることが、いつか大きな生態系や生物多様性の豊かさにつながっていくはずですから。

───本日は貴重なお話をありがとうございます。

(Interviewer:蛭子 彩華 本誌編集委員)

*お顔写真とプロフィール文はネットからの仮置きです。

奇二 正彦(きじ まさひこ)氏
立教大学 スポーツウエルネス学部
スポーツウエルネス学科 准教授

立教大学文学部史学科卒業後、ニュージーランドのアートスクール、動物カメラマンの助手、 環境教育系NPO、環境コンサルティング会社などを経て、同大学コミュニティ福祉学研究科コミュニティ福祉学専攻博士課程後期課程修了。博士(スポーツウエルネス学)。2023年新設の「スポーツウエルネス学部」准教授に就任

Something New

第14回 Something New

Something New

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中島 純一
公益社団法人日本マーケティング協会 客員研究員

見聞録

第43回 見・聞・録

大坪檀のマーケティング見・聞・録

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Text 大坪 檀
静岡産業大学総合研究所 特別教授

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組織をゾーンに入れる「魔法の会議」

『組織をゾーンに入れる「魔法の会議」』
伊賀聡著

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多摩大学大学院 MBAコース教授/学科長