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			上野 千鶴子 氏
社会学者・東京大学名誉教授
認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長
*本記事は、『マーケティングホライズン』2022年第3号(4月1日発行)に掲載された内容を、Web版として再掲したものです。
156カ国中、120位。これは「ジェンダーギャップ指数2021」における日本の順位だ。ジェンダー格差だけでなく、少子高齢化、介護業界の人手不足など、日本が抱える課題を挙げれば枚挙に暇がない。他人行儀ではなく、自分ごととして生きていくためには。女性学で当事者研究のパイオニアでもある上野千鶴子氏に編集委員3名でお話を伺った。
蛭子 本号のテーマは「わたしとわたしたちのこれから」です。上野さんは、女性学で当事者研究のパイオニアとして“わたし”に向かっていかれ、研究で得られた多くの成果を私たちは学ばせていただいています。混沌とした社会の中 で“わたし”を見失うことなく、“わたしたち”のこれからをどのように描いていけるか。ご自身のご経験を伺いながら、本テーマについて考えを深められれば幸いです。はじめに、そもそもなぜ社会学を専攻されたのでしょうか。きっかけをお聞かせいただけますか。
上野 社会学を専攻したのは不純な動機で、消去法です。ただ一つの積極的な動機は、私が非常に好奇心の強い子どもだったということです。死んだものよりも目の前の生きて動いているものに関心がありました。しかし、社会学をやってみたらはっきり言ってつまらなかった。学問に価値がないとは言いません。大学に入ったら、男が男のために、男がいかに生きるかを考えて作られてきたことがわかるだけで、学問に女の居場所はありませんでした。
 モラトリアムで大学院へ進んだ20代半ばに、アメリカに女性学があることを知りました。自分自身を研究の対象にしてもいいと、目から鱗が落ちました。そのとき初めて真面目にやる気が出ました。
 社会学は類型化して外から見るという点でマーケティングと親和性が高いです。つまりは「他人ごと」です。しかし、私は女性学と出会ったことで、自分自身が研究対象となりました。当事者研究という言葉は当時ありませんでしたが、今から思えば女性学は当事者研究のパイオニアでした。
 けれど、大変な目にも遭いましたよ。学問は中立的で客観的なものであり、女が女のことをやると主観的で、それは学問ではないと散々言われました。今でも女性学は二流の学問だと思われています。頭の悪い女のやるものだとか。優れた業績を上げた女性がジェンダー研究に行くと、惜しいことをしたと言われたそうです。
松風 今のお話からフラストレーションに近いエネルギーの強さを感じました。それが自分に向かっていく時、上野さんはご自身の無限大の可能性を感じられたのでしょうか。
上野 自分が女であることは巨大な謎でしたから、解くべき問いが山のようにありました。自分が女であることと折り合いがつかない。多くの女の子たちはそういう経験を10代からすると思います。女という謎に立ち向かってみると解かれていない問いがいっぱい。アンネナプキンの登場前には月経用品は何を使っていたのか、お産の場に男は立ち合ったのか、授乳のしかたはどう変わったのか、なぜ女の子は自尊感情が低いのか・・・自分の可能性というよりも、女性学には無限大の可能性がありました。
 私たちは女性学をジェンダー研究に変えてきましたが、ジェンダーとは男女の非対称な関係性のことです。当たり前ですが、一方が変われば、他方も変わらざるを得ません。女が変わったのに、男はこの数十年間、ほとんど変わっていません。すべて女の問題であると局所化されてきたのです。
 1985年の男女雇用機会均等法成立以降、社会が変動するのに十分な一世代分の時間が経ちました。世界的な動向を見ていると、その間に改革をやってきた国と、そうでない国の違いがはっきり出ており、日本は変わらなかった方の国です。しかし、一見女だけに選択肢が増えたように見えます。男は仕事だけ、女は働いても働かなくてもいい、働くにしてもフルタイムでもパートでもよい。とはいえ、それは自由な選択と言えるでしょうか。女性は家庭責任に加えて家計補助型の仕事を負わされています。つまり、家事育児にしわ寄せがいかない程度の仕事を夫に許可されてやるということです。今働いている女の10人に6人は非正規で、しかも、それは今や家計維持のために必須になっています。これが日本のマジョリティを占め、私たちはこれを新・性別役割分担と呼んでいます。
 企業では一般職か総合職かのコース別人事管理制度を導入し、女性総合職は倍率が高く一握り。一般職で採用しても何年か見ていると、その人の伸びしろがわかるものです。コース転換という制度を導入したところもあるけれど、転換のハードルがまたやたらと高い。そのため、最初から同じカテゴリーで採用し、働きぶりを見ながら配置転換していったほうが、人事の上ではむしろ効率的だったと後で反省する人事担当者もいました。
 基本的に女は補助労働力という仕組みの結果、何が犠牲にされたかというと、女の意欲と能力が犠牲になりました。企業にとって貢献するだけの力量を女はもっているはずなのに、女の意欲をくじくことで、日本の企業は非常に大きな外部不経済を生んできたと思います。企業にとって人材の能力と意欲、どちらが大事かといえば、もちろん意欲です。労働者の能力にたいした差はありません。能力を発揮してもらうための意欲をどう引き出すかを考えることが人事や経営者の役割でしょう。
蛭子 ご自身が教育者になられたとき、学生の意欲をどう引き出していったのでしょうか。
上野 私は「でもしか教師」で、はじめは渋々の思いで就いた職業でした。長い間、経営基盤の弱い私学で教師をしましたが、新設の大学だと、完成年度まで私学助成金はびた一文も出ません。教師の給料の原資は学生の授業料です。ある時私は、学生が卒業するまでに支払う学費と、卒業に必要な単位数とで1講義あたりいくらになるかを試算しました。すると、1講義5,000円。仮に一括払いではなくばら売りで、教室の入口で5,000円ずつ払って出席すると考えたら、学生は来てくれるでしょうか。
 そこで、職業倫理としてこの子たちに払った分の元は取らせてあげなければいけない。そして、ありものの知識ではなく、ちゃんと生きていけるような知恵をつけてあげなければならないと考えました。知恵というのは、問いを立て、それに答えを出す力です。見たことのない問いにぶつかったとき、どうやって問いを立て、どうやってそれを解くかというノウハウを教えることはできると思ったので、私は弱小私大で教育に燃えました。
 多くの子どもたちは、やればできるという達成感や成功体験がなく、マイナスから出発しています。彼らの口癖は「どうせ」「しょせん」です。まずそれをゼロに引き上げるために一苦労しました。その次に、ゼロのスタートラインから成功体験を持ってもらうための1つの条件は、できるだけハードルを低くすること。教育者ができることはそういう仕掛けを作ることだと思います。基本的に東大での教育は、偏差値4流大学(というと差別用語ですが使わせてください。なぜなら本人たちがそう言ったので)で実践した教育法と同じことをやりました。子どもはどの子どもも同じだということがよくわかったからです。
 今でも忘れられない言葉があります。私学時代のある学生が卒業前に私の研究室にやってきて「先生、ボク、頭は持っていたけど、使い方知らんかっただけやった」と言って出て行きました。それに感動したのは「ボク、アホやった」とは言わなかったことです。頭を持っていたけど、使い方を知らなかっただけというのは、自分自身に対して誇りのある言葉です。
 教師になる前、様々なところで女性学の研究会を行ってきました。そこで、一人ひとりの女の人を舞台の上に引っ張り出して主役にし、彼女たちの経験を言語化して理論化する仕組みを作りました。例えば、助産師さんの仕事の話、障害児を産んで涙をのんで仕事を辞めた教師の話、あるいは主婦の話を淡々としてもらうのです。教育は、学校教育だけではなく社会教育も含みます。女性学は大学の外の勉強会や公民館で育ちましたから。自分と立場の違う女性たちと沢山接した経験が、学校教育にもつながっています。
ツノダ 特に女性は、涙の裏にある本来感じている怒りをきちんと表現できる環境がない。それを表現したところで、周囲が叩く風潮があるのではと感じます。
上野 女性学の研究者であるキャロリン・ハイルブランが「怒りとは女性に対して最も禁じられた感情である」と言いました。とても腑に落ちました。女は怒ってはいけないのです。女が持っていい感情は、妬み、そねみ、恨み。これは、絶対に打ち勝つことのできない強者に対して弱者の持つ感情です。怒りは対等な人間同士の間で、自分の権利が侵されたときに感じる正当な感情で、自分のプライドを守るためのものですから。最近のアンガーマネジメントを見ていると、怒りをコントロールするよりも、正しく怒る方法を学ぶ方がよっぽどいいのではと感じます。
松風 上野さんは今、幸せですか。
上野 幸せの定義ができないので難しい質問ですね。ただ、私はおかげさまで機嫌よく暮らしています。
ツノダ 機嫌よく暮らすために、上野さんにとって一番必要なものは何でしょうか。
上野 イヤな人と付き合わないことですね。ストレスは他人から来るものですから。
ツノダ 大事ですね。大事なのにできる人が少ないかもしれない。女性だけでなく男性も含め、不満や怒りを抱えるこの日本社会で、上野さんが感じている希望があれば教えていただけますか。
上野 ため息が出てしまいますが、もしかしたらもう日本に希望はなく、本当に泥船で沈んでいくだけかもしれません。外国からゲストが来日して、彼らがよく言うのは「官公庁、自治体、企業のトップに会ったが女は1人もいなかった。日本の女はどうなっているのだ」と。それに対して「あなたは行く場所を間違えている。そんなところではなく、日本には無位無冠の強力な女たちが草の根にたくさんいる」と答えます。
 草の根活動の女たちと長らく付き合ってきたことが、今の私を支えています。私は、主婦たちを侮ったことはただの一度もありません。もしこの人たちがしかるべき地位に就いていれば、夫より出世していたのではないかと思うほど有能な人が沢山います。
 結局、日本社会はこの人たちに受け皿を用意しなかった。しかし、意欲のある人たちは自分たちで活動の場をつくってきました。私は現在NPOを運営していますが、NPOや地域活動を行ってきた女たちの底力を本当に信頼しています。
 例えば、日本の介護保険。高齢者介護の研究に取り組んでいますが、日本の介護保険の制度は世界に対して誇るべき内容を持っています。ただし、マンパワーと予算の規模からいうと、福祉先進国とは比べものにならないくらい貧困で、それを批判する人が山のようにいますが、私は擁護する側です。
 ある人から「上野さんが介護保険を信頼できるのは、それを担っている人たちを信頼できるからだね」と言われました。制度に欠陥はたくさんありますが、介護を担っている人材とケアの質は世界的に見て決して引けを取りません。それだけの底力を日本の市民は持っていますし、その中に無位無冠の女たちが沢山います。
ツノダ その人たちの存在が希望の1つでしょうか。
上野 そうですね。彼女たちが少しずつ制度を変えてきましたから。介護保険を作らせたのも非常に大きな達成です。私たちの世代の女には社会に受け皿がありませんでしたが、次の世代は、お金につながる仕事を自分たちでつくり出し始めました。その背景にあるのは、女に経済力と購買力ができたことと不可分です。女に財布がなかったら、マーケティングもへったくれもないですよね。
松風 介護のお話の延長で、老いについてお伺いしたいです。親の老いる姿を見ながら、自分も将来、依存的な存在になっていくことに対して葛藤があります。上野さんご自身は、老いとどう向きあわれているのでしょうか。
上野 介護研究をして良かったのは、自分よりも先に老いて死に近い人の道筋を観察できたことです。今の社会で私たちが簡単に死ねない理由は何かといえば、栄養水準、衛生水準、医療水準、介護水準を上げてきたからです。水準を下げれば、あっという間に死にます。発展途上国に行けば、感染症が原因で40代くらいで死んでしまいます。
ツノダ 老いて自分の思う通りに生きられない葛藤を考えると、怖く感じてしまいます。
上野 そもそも、私たちは自分で自分の思うように体を動かせるでしょうか?高いところにある物を取る時に、1メートル以上ジャンプできる人がいるでしょうか。人間は、自分のカラダさえ思い通りにできない、ままならない生き物です。
 もしあなたが病気になったり、障害を持っていたらどうしますか。子どもはもっとままならない他人です。人生とは、そういうものと付き合って生きていくということだと思います。病人になっても、障害を持っても、死なずにすむ。子どもが障害を持って生まれてきても殺さずにすむ。あれもこれも、望んで作りだしてきた文明の成果です。親の老いる姿を見て葛藤するのは、あれほど強かった人が弱くなっていく姿を見るからですね。それは、最高の教育だと思います。
 一番依存的な存在は、新生児と死にゆく年寄りですが、それをこれまで100%の家族の責任にして、家族の中だけに閉じ込めてきたのです。女はそのケア役割をワンオペでやってきたのです。ようやく育児や介護は「家族の中で、女がたった1人でやることではない」というコンセンサスができてきた。そうでないと、もう女の人たちが潰れてしまう。実際に潰れて悲鳴を上げている人もいます。その負担を社会全体で分担するために、制度を作ってきたのです。例えば、育児支援や介護保険です。介護保険がなかった時代へは戻れません。
松風 怖いと思ってしまいましたが、介護保険ができる前と比較すると、安心できる時代になったのですね。
上野 他人に頼んだ場合には、きちんと対価が発生する。昔は対価がなかったのですから。私は、嫁の介護を、感謝なき介護、対価なき介護、評価なき介護と呼んできました。
 介護保険法は2000年に施行されましたが、この約20年間で巨大なマーケットを作りました。介護保険サービス市場で育った事業者や働き手たちは、日本の財産だと思っています。私のようなおひとりさまで子どもがいなくても、安心して暮らせる社会です。子どもがいなければ、一昔前には「みじめ」の一言でしたから。
蛭子 不安という感情から、マーケットが誕生し、人材が育つというプラスな面もあるのだと感じました。
上野 現場で育つ経験知を専門用語で、ローカルナレッジ、クリニカルナレッジと言います。学者や役人が机上で考えついたものではなく、生活体験の中から生まれた経験知です。情報の発生する現場は、そういったローカルな場です。
 例えば、ある非常に質のよい介護実践を行っているデイサービスの女性経営者に会った時、その人が「血はつながっていないけれど、私たちは家族です。家族のようなケアをめざしています」と言いました。私は食い下がり「家族のようなとは、どういう意味ですか?でも、皆さんは、家族にできないことをやっておられるんじゃないですか?」と聞きました。すると、その女性がふっと「あ、そうね、私たちは家族にできないことをやっているわね」と言ったのです。さらに食い下がり「今、家族にできないこととおっしゃいましたね。それは何ですか?」と。その次に出てくる台詞をもし当てたら、皆さん方は偉いです(笑)。
ツノダ 家族にできないこと・・・・。
上野 これは、介護経験がないと言えないかも。彼女の口から出てきたのは「優しくなれること」でした。これがわかった人は苦労人です。この一言の背景に、どれだけの思いがあるか。どれだけ家族介護の現場をその人が知っているか。どれだけ家族介護が追い詰められているか。その後、私は「あなたたちは、家族にできないことをやっていらっしゃいます。であれば、“家族のような”と言うのをやめましょうよ」とお話しました。
ツノダ まさに机上の研究からは絶対に出てこない言葉ですね。どんなにAIが発達し、どんなにビッグデータを扱って分析しても、その一言は絶対そこからは出てこない。自分で見聞きした、現場の情報を大事にしたいと感じました。そして、その一言を聞いたときに、それが大事だと思える感性、目線を持っていることがすごく大切だと思いました。
上野 全くおっしゃるとおりです。AIが持っているのは、ありものの知識です。ありものというのは、自分以外の誰かが生産した知識で、他人がつくった情報は全てセコハン情報です。セコハンとはセカンドハンドのことで、人の手を一度通ってきた二番手。学生に論文を課す時は「セコハン情報は絶対許さない。一次情報を取ってこい。自分がゲットした現場の情報を分析の対象にしなさい」と伝えてきました。
ツノダ 分析者が生ものに向き合う目。生きの良さを見極める目を養うにはどうしたらいいのでしょうか。
上野 それは簡単です。子どもは好奇心の塊なので、それを潰さなければいいのです。それまで子どもたちは、何か言ったときに無視された、押さえつけられた、そんなバカなことを考えるんじゃないなどのネガティブなことを言われ、自分の意欲を低下させられてきています。そのときに「おもしろいことを考えついたね、私もよくわからないから一緒に考えてみようか」と大人が言ってくれれば変わります。
ツノダ 新入社員に対しても同じでしょうか。
上野 何歳になっても同じです。成人を相手にした社会教育の講師も務めましたが、60~70歳を過ぎた人でも、タケノコが皮を剥ぐように育ちます。その人が自分で成長したいという意欲を持っていたら、本当にぐんぐん変わっていく。しかし、そういった経験をこれまで味わったことがないのだろうなと思う人によく会います。同調性は、日本の国民性でも何でもありません。
ツノダ お互いに異なる意見を言い合える土壌や、言い合う習慣があまりにも日常的にないまま大人になった人が多いのではと感じます。
上野 私のゼミでは、発表者に対して質問が出たとき、返答後に質問者に必ず「Did he or she answer your question?」(今の答え、あなたの質問に答えたことになった?)と、確認します。そう聞くと、「いや、私が聞きたいのはそこじゃなくて」とか「ここはいいけど、ここの部分が納得できない」とかフィードバックが返ってきます。他人の言うことに100%同意することはありません。一部は同意するが、他の部分には同意できない。そうやって議論を詰めていくところから、次の一歩が生まれます。日本のゼミでは、質疑応答が一問一答で終わってしまいがちです。すれ違ったまま、飲み込んで黙る習慣があるようです。きちんとかみ合う会話になっておらず、互いの意見が、双方に影響し合う経験があまりないようです。最悪の例が国会の論戦ですね。マーケティングの業界がそうであったら、最低じゃないですか。
蛭子 それは会社も同じだと思います。空気を乱すような発言をすれば、自分がおかしいのかなと萎縮してしまって、その後も何も言えなくなってしまうことがあるのではと感じます。
上野 「人と違うことを言ってもかまわない」という、その場の空気があるかどうかが大切ですね。卒業生たちが書いた『情報生産者になってみた』(ちくま新書、2021年)の本の中で一番嬉しかったのは「あんなに権威主義的でない空間は味わったことがなかった」と言ってくれたことです。何を言ってもかまわない。何を言っても賞罰を受けない。そういう場が、学校や職場に少ないのでしょう。
ツノダ 心理的安全性という言葉を最近よく耳にしますが、安心して話せる環境を家庭、そして組織内でつくっていくことが大切ですね。そして自分自身、ノイズや直感、自分の内なる違和感を大事にして、流されずにきちんと伝えられるような姿勢をもって生き続けたいと改めて思いました。本日は貴重なお話を本当にありがとうございました。
■ 蛭子 彩華
 上野さんにご紹介いただいた学生や女性の言葉には、血の通った人のあたたかさがあった。それらの言葉を引き出すために、時に“食い下がり”離さない。時間を惜しまず、諦めず、納得するまで対話をする。それは、「自分の気持ちを言葉にすること」そして「安心して言葉にできる環境をつくること」で達成される。それこそが“わたしとわたしたちのこれから”を前向きに、そして生き生きとしたものにするために必要なことであり、そのためにも、まずは自分自身が言葉にすることを恐れず、そして目の前の人の言葉を聞き逃さずに生きたいと感じた。改めて「誰しもが喜びも怒りも持ち合わせた“生身の人間”なのだ」と肝に銘じる機会を頂いたことに、心から感謝申し上げたい。
■ 松風 里栄子
 自分の感情に正直に向き合うこと。これが大人になればなるほど困難になる。“優しくあれ、強くあれ、怒りを抑えなさい、泣くのは大人ではない、、、” 社会性というヘルメットをかぶり、自分自身を解き放つことを我々は時に忘れる。そこには自分の感情を吐き出せば、傷つくかもしれないというディフェンスメカニズムも働いている。上野さんは、そんなヘルメットやメカニズムを取り払った時に人は自分の真の可能性に気づく、ということをまさにご自身と、上野さんが関わる学生やコミュニティで示しておられる。勇気とパワーをいただいた取材となったが、その源は上野さんの厳しくも暖かい人間性と、人に対する飽くなき好奇心だと感じている。
■ ツノダ フミコ
 世間一般、あるいは多くの男性が上野さんを語る際の頻出ワードに「こわい」があるが、ひと頃話題になった東大入学式の祝辞や数々の著書には優しさと寛容が滲み出ている。どの立場から上野さんの言葉を受けとめるかにより印象が大きく変わるのだろう。このたびのインタビューにおいてもそれを実感した。静かで澄んだ声に凄味を感じるのは、現場の実態と声を集め、N=1に潜む社会課題の解決に向けて動いていくのだという強い意志の所以だ。オンラインのインタビューではあったがにこやかに鋭く返すその迫力に何度もたじたじと後ずさりしつつも、懐の深さと柔らかさでそのたびに引き戻される、そんな心地良い時間をいただいた。これだ、これが上野千鶴子なのだ。
(Interviewer: 蛭子 彩華、松風 里栄子、ツノダ フミコ いずれも本誌編集委員)

上野 千鶴子(うえの・ちづこ)氏
社会学者・東京大学名誉教授
認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長
富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。平安女学院短期大学助教授、シカゴ大学人類学部客員研究員、京都精華大学助教授、国際日本文化研究センター客員助教授、ボン大学客員教授、コロンビア大学客員教授、メキシコ大学院大学客員教授等を経る。
1993年東京大学文学部助教授(社会学)、1995年から2011年3月まで、東京大学大学院人文社会系研究科教授。2012年度から2016年度まで、立命館大学特別招聘教授。
2011年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。
専門は女性学、ジェンダー研究。この分野のパイオニアであり、指導的な理論家のひとり。
高齢者の介護とケアも研究テーマとしている。
玉塚 元一 氏
株式会社ロッテホールディングス 代表取締役社長CEO
一般社団法人ジャパンラグビー リーグワン 理事長
*本記事は、『マーケティングホライズン』2022年第3号(4月1日発行)に掲載された内容を、Web版として再掲したものです。
片平 玉塚さん、お久しぶりです。最初にお目にかかってから20年くらいになりますがこのたびラグビーのプロリーグ「リーグワン」の理事長に就任されました。まだ発足間もないわけですが、標題にありますように今度の試みは日本と世界、地方と都会、女性と男性(ファン構成)の三つの大きな溝がじわじわ埋まっていくような凄い実験だと思っています。そのあたりを代表者の玉塚さんにズバリお伺いしたいです。私の横には、熱い「にわか女性ファン」の秋庭愛子さん、スポーツで地方を元気にするプロの高木佳子さんのお二人が控えていてあとで玉塚さんに迫っていただきます。
 まず、どんな経緯で理事長におなりになったか、そのあたりからお聞かせ願えますか。
玉塚 大学を卒業してメーカーに13年ほどお世話になった後に、やはり自分で事業をやりたいという思いが高まって、劇的な出会いで柳井正さん(ユニクロ創業者)にお会いすることになりました。すごく怖かったのですが、まだ年商700億円程度だった山口県に本社があるファーストリテイリングに飛び込み、そこで7年間お世話になり、後半3年は社長、会長という形でとてつもない薫陶を直接に受けました。柳井さんから、商売の原理・原則を教わりましたし、ビジネスの基本は全部柳井さんからです。ユニクロ卒業後も非常に仲良くしていただいて、先日もお会いしました。いまだに私の商売の師です。
 ユニクロを卒業した後にそこで一緒だった澤田貴司さん(前ファミリーマート副会長)とリヴァンプという会社をつくりました。今、250人規模のユニークな会社になっています。どんな会社かと言いますと、企業が壁にぶつかり成長が止まってしまったときに、われわれ異分子が中に入っていって改革を起こして立ち直らせる、そういう会社です。
 そのクライアントの一つがローソンで、新浪社長(当時)に頼まれて一人でローソンに入りました。そこで7年間社長をやり、そのあと、今度はデジタルハーツという非常にユニークな会社に入社しました。一昨年、ロッテグループの重光会長に請われて昨年6月からロッテホールディングスの社長をやっています。
玉塚 一昨年の年末あたりから、リーグワンの準備委員会ができて、そこにトップリーグ(2021年まであったラグビーの社会人リーグ)の各チームの代表やラグビー日本協会の人、私を含めたトップリーグ側の人間、新しくリーグワンをつくるときのスタッフなども集めて議論を始めたのですが、なかなかすんなり進みませんでした。新リーグ成功のためには、協会、チーム、母体企業等様々なステークホルダーとの連携、コミュニケーションが重要ですが、なかなかうまくいっていませんでした。
 僕は、携わったら責任感もあるので、こういうことをできる人材を入れたらどうだとか、こういうふうにしなくては駄目だとか、シンプルなメモにしてこれを全チームで共有したほうがいいなどと盛んに議論していたら、その流れの中で、今度の新しいリーグワンをどうしても理事長として手伝ってほしいと頼まれた、というわけです。
 僕は、ちょうどロッテホールディングスの社長になるタイミングが6月でしたので、秋ならどうか、ということでお引き受けしました。ただ、自分は現場には入れないので、しっかりとしたチームをつくってくれるのであればお受けできるとお願いしました。おかげさまで東海林さん(東海林一専務理事、元ボストンコンサルティング・シニアパートナー)を軸に強力なチームができ上がって何とかうまく動き出した状況です。
片平 いいですね。玉塚さん、東海林さんという経営のプロが中軸になっているのは心強いです。理事長をお引き受けになるお気持ちとしてはどうだったのですか。
玉塚 僕はなぜお受けしたかと言うと、一つは、ラグビーへの恩返しですね。僕は慶応でラグビーをやっていて、今では考えられないのですが、山中湖合宿では何度も気を失うような練習をこなし、結果として、早稲田にも明治にも勝って。大学選手権は決勝まで行けました。やはり、努力をすれば結果が得られるということを実際に体験できたことは大きかったです。あれがなかったら、今、僕はどこでどうしているか分からないですね。今は社長をやっていますが、ラグビーがなかったらそんなことは絶対ないので、その恩返しですね。
 もう一つは、日本のラグビーが独特なのは母体企業がすごいところですよね。トヨタ、パナソニック、キヤノン、サントリー、NTTなどの母体企業が、実は、もう50年ほどラグビーを応援しています。今回、形を変えてリーグワンになるわけですが、やはりチームサイドの声を聞いて、チームの母体企業の意向を聞き、それで母体企業を巻き込まないと、それを無視して一気にプロ化はむずかしいですよね。母体企業の経営者の方々を存じ上げていることもあり、逃げられなくなりました。
片平 どこからお聞きしましょうか。まず、なぜこんなに外国のトップクラスのいい選手が日本に嬉々としてやって来ているのでしょうか。少し調べたら、僕の知ってるだけで国の代表クラスが15人。南アフリカ5人、オーストラリア4人、ニュージーランド3人、それに英国3人。1人平均50キャップ(=代表選出の回数)ほどありますから、この人たちでチームをつくるとすごいことになりますよね。世界一強いのでは、と思えます。玉塚さんは直接関わっていないとは思いますが、横で見ていてどう思われていますか。
玉塚 二つの側面をお話しすると、やはり一つはラグビーのルーツという話です。大英帝国、イングランドで生まれたスポーツですけれども、大英帝国から1800年代、ニュージーランドや南アフリカ、オーストラリアなどにどんどん広がっていった中で、ラグビーだけが国籍主義ではなくて、ユニオン、協会主義という考え方になっていったんです。英国からの移民と現地の人たちが入り混じって、例えば、ニュージーランドのラグビーが強くなっていったわけです。そのとき国籍を問題にしていると、もう先へ進めないので、そこでユニオンという新しい仕組みをつくって、そのユニオンで、例えば、3年プレイしたら、4年プレイしたら、日本の場合は5年ですが、その国の代表になれるという仕組みができたのです。日本の場合も、国籍は関係ないので、日本のラグビーユニオンに入った、そこで仲間ができた、3年、4年プレイした、そうすると君も代表になれるよという仕組みです。
 二つ目は、このリーグワンのチャンスの中でものすごく大きいものが、アジアの中のリーグワンだと僕は思っています。ラグビーには英国にもフランスにも巨大なリーグがあり、南半球にはスーパーラグビーという凄いリーグがあります。それに比べてアジアはぽっかり穴が開いていて、今後アジアの中でラグビーというコンテンツがどうなるか、このポテンシャルは相当大きいのではと思っています。
 事実、このアジアの中のリーグワンということで、だんだん世界が注目しだしています。先日海外のメディアとオンラインの記者会見をやって、1時間ほど話をしたのですが、イギリスやフランス、ニュージーランド、オーストラリアなどのラグビー界ですごく有名な記者が25社程度集まってくれて、彼らは日本が優れた選手を全部持っていくのか、そうなったら南半球のリーグは大丈夫かなどといろいろと心配していました。
 選手だけではなくコーチ陣もやって来ています。ディビジョンワン(リーグワンの中の1部リーグ)12チームのうちの10チームが南アフリカやオーストラリアのトップクラスの人がヘッドコーチです。僕もほとんどの試合に行っていますし、練習の現場にもずいぶん行っていますが、たいへんレベル上がっていますね。この中で日本の選手がもまれていくと、間違いなく世界トップクラスの選手に育つと思います。
片平 素晴らしいですね。日本の企業は世界中でいろいろな商売をしていますが、本社の組織が日本ローカルのままです。プレーヤーもほとんど100%日本人なので世界と伍してやれる態勢になっていません。ラグビーという非常に狭い世界ではありますが、日本に突然こういう集団が生まれた。これはすごいことですね。12チーム中10チームのヘッドコーチが本場から来ているというのもすごい。日本の社会として革命的なことだと僕は思いますが、玉塚さんに実感ございますか、始まったばかりですが。
玉塚 これは誰かが戦略的にやったのかというと必ずしもそうでもないし、そんな頭のいい人、僕も含めてラグビー界にいませんから。先ほど申し上げたように、ラグビーの文化は世界共通なので、地域は違っていても集まれば違和感なく動くというところはあるかと思います。ただ、なぜそんなトップクラスが嬉々として日本にやってくるかです。
 そこで、とても大きいのは、2019年のワールドカップだったと思います。日本でワールドカップが開催できるなんて、あれは奇跡の大会ですよね。僕ら、ラグビーをやっていた人間からすると、日本中がラグビー一色に染まったことが信じられない、夢のまた夢でしたね。最後のスコットランド戦など、僕も横浜にいましたが、最後の10分間、ずっと泣いてましたよ、ぼろぼろ感動して。
 あのとき思ったのは、この感動は何なんだろうと。これは、やはりラグビーの持つ精神性、ノーサイドの精神や自己犠牲の精神、利他の精神などが、日本の武士道やある種の精神性やカルチャーに合致したからなんだろうと思いました。いまだに世界で史上最高のワールドカップだったと言われていますね。
 例えば、スコットランド戦のときに、台風で大雨が降ってピッチが沼のようになりました。誰も試合ができるとは思わなかった。まして中止になれば自動的に日本が決勝リーグに行ける、その中で、現場が全部水を掃いてきれいにして試合をやって、そして見事勝った。この堂々とした姿勢に敵も世界も「参った!」でしたね。
 こうして世界の選手たちが、横浜、釜石、名古屋、大分と回って、どこも飯はうまいし、安全だし、皆親切だし、何といういい国なんだと思ったのです。グレイグ・レイドローさん(スコットランド代表)やボーデン・バレットさん(ニュージーランド代表)も、私に直接そう言ってくれました。ただ、それだけだったら駄目で、一番大切なのは、このリーグワンの試合のレベルが上がったことです。このリーグワンで世界のトップクラスが十分自分の能力を維持し向上できると実感できたら、この輪がもっと広がり大きく変わってくると思います。
片平 リーグワンは「地域密着」ということも掲げていますね。ホームのチームが相手チームを自分のスタジアムに呼ぶという「ホーム・アウェイ制」も呼ぶ側に熱がこもっていていいですね。静岡、大分、豊田、釜石など地域が熱いです。いま日本全体でも首都圏集中が一段落して、地方が元気になるという機運が高まっています。リーグワンはその先頭を走っている気がしていますが。
玉塚 複合的な話をしますと、「あなたの街から、世界最高を作ろう」、「地域になくてはならない存在になる、地域に貢献する」というフィロソフィ自体は絶対間違っていませんし、この軸はぶらさないでいきます。ただ、リーグワンもベンチャーと一緒で、今はホップステップジャンプのホップの段階で、生みの苦しみがあります。構想段階で、サッカーのJリーグなどいろいろなものを見てきて机上の空論でやりましたが、やってみてふたを開けてみると、いろいろな問題が出てきています。
 ディビジョンワンでも、今、関東近辺にチームが集中していて地域に分散されているかというと、そうでもないわけです。ホームサイドのチームがものすごくホームを盛り上げていて、会場周辺の空気もトップリーグのときとは様変わりです。ただ、試合を見ていてすごく違和感があるのは、誰かがトライしたときに、掲示板に自分のホームの選手だと名前と顔写真が出るのですが、アウェイの選手だと名前しか出てこなかったりします。地元を盛り上げるのは大事ですが、外から初めて来てくれたお客さまにもラグビーを好きになってもらうこと。ホームとアウェイともに盛り上がるのを第一に考えないといけないですね。
 もう一つ、すぐ変えなきゃいけないと思っているのはチームの名前ですね。東京BRだと短くて分からない、東芝ブレイブルーパス東京だと長すぎる、と。統一ルールがあるようなないような段階で大混乱しています。これは駄目で、これもすぐ整えないといけませんね。
 ワールドカップ後に、にわかファンというのですか、新しいファン、特に若い女性のファンが目立って増えてきました。こうしたファンの方に喜んでもらえるようにするのがすごく重要です。チームは一生懸命やっています。トップリーグのときは日本協会が全部やってくれたことを、今回はチームと僕らリーグが一緒になってスタジアムを手配して興行を運営しなくてはいけないのでチームは必死です。その結果、試合だけでなくスタジアム周りも熱気を帯びてきました。ただ、チケットの販売方法など課題も山積みです。
 例えば、チケット販売では自分のチームのチケッティングサイトで何とか売りたいので、他では買えないのです。買いにくいチケットをやっと買って会場に行ってみると空席だらけなんてことが起こってしまいます。間違いに気づいたらすぐに修正する、そうしないとせっかくついた若いファンが逃げてしまいます。
片平 ホームチームに偏った会場運営、チーム名の呼び方、チケットの販売方法などなどいろいろと課題がありますが、これらはリーグや各チームの事務方が自分たち目線で必死に頑張ってきた結果、ファン目線、社会目線が少し欠けていたということなのではと感じました。今日は本物の若い女性の「にわかファン」をお一人お呼びしています。あのワールドカップですっかりラグビーにはまって、このコロナ禍の中、今まで9都道府県、16会場に行かれたという筋金入りの女性です。ファン目線から玉塚さんと語っていただけますか。
秋庭 貴重な機会をいただき、ありがとうございます。まさに、ラグビーのルーツからくる日本、日本人との親和性のようなものを私もすごく感じていたので、今日のお話を伺って納得しましたし大変感銘を受けました。どうもありがとうございます。
 ちょうど先ほど挙がったチーム名の問題ですが、やっと名前を覚えたところ、今年、リーグワンになってずいぶん変わってしまって戸惑いはあります。チケットについても、ホームアンドアウェイ制になってホームのチケットしかファンクラブで買えないのでアウェイ戦のチケットも買えるように、私は今6チームのファンクラブに入っています。入ってみるとその6チームは、ファンとの関わり方や地域密着のスタイルもそれぞれすごくカラーが違って面白くて、それらのチームをどんどん好きになっていきました。
 また、ラグビーでいいなと思ったのは、見ている人とチームや選手との距離の近さです。私自身、各チームの公式インスタはもちろんフォローしていますし、気になっている選手もフォローしています。それぞれが試合情報であったりチケット情報であったりオフの情報であったり、普段の活動について発信しているので楽しく見ています。こちらから情報を取りに行くとこれほどにたくさんの魅力に出会えるので、せっかくならばもう少し各チームやその地域の良さが幅広く伝わりやすい環境があったらいいなと思いました。
玉塚 今、秋庭さんから各チームのクラブはそれぞれ独自の魅力があって素晴らしいというお話がありました。今リーグにとっても各チームにとっても、秋庭さんのような若い女性ファンの獲得は喫緊の課題です。そのとき、秋庭さんたちにとってチームの魅力の源泉は何ですか。例えば、スター選手がいるということはどのくらい重要だとお考えですか。
秋庭 おっしゃるとおり、若い女性ファンを取り込むためには、スター性のある選手を入り口にするのは大事かなとは思います。そこから更に長く太いファンになってもらうためには、このスポーツの精神性とかぶつかり合いのライブ感といった魅力を体感してもらうことが大切ではないでしょうか。私自身は、ラグビーのメンタリティや、For The Team、 One For Allの精神にものすごく感銘を受けてのめり込んだところがあるので、特定の選手のファンというよりラグビーそのもののファンです。私にとっては、ラグビーが私の人生の彩りに非常に重要な立ち位置を占めていて、本当に楽しませていただいているので、他の方々にもその魅力が伝わるといいな、と思っております。
玉塚 なるほど。ありがとうございました。うちのスタッフにも聞かせたいですね。一度じっくりヒアリングさせてください。
片平 スタジアムの企画から建築に関する仕事に携わり、スポーツで地域を元気にすることに熱い高木佳子さん、玉塚さんにお聞きしたいこと、おっしゃりたいことはありますか。
高木 たいへん貴重な時間、ありがとうございます。今日、いろいろお話お聞きして大変勉強になりました。地域とスポーツチームと街づくりに関心があります。玉塚さんにお聞きしたかったことは、ラグビーは、他のプロスポーツに比べると試合数が極端に少なくて年間1チーム16試合と伺っています。そうした時に地域の方々や、ファンの方たちと関わる機会をどうやって増やしていくかについてはどうお考えですか。
玉塚 大事なポイントですね。まず、1月から5月までがリーグの本シーズンですが、その後、夏から秋にかけて、カップ戦というのを考えていて、それに加えて、そこにクロスボーダー(国境をまたがる試合)、例えばオーストラリアのチームとかとの試合も入れたいと思っています。
 もう一つは、アカデミーという小、中、高横断したコミュニティを各地域につくってラグビーの裾野を増やしていきたいと思っています。それを全国で強化してリーグワン主催のユースのカップ戦をやるとか、それがまたクロスボーダーもやって、小さいころから外国人にぶつかり交流するとか、そういう取り組みをやっていきながら地域を盛り上げるというのはありだと思いますね。
 高木さんに質問です。ラグビーもサッカーもコンサートもできる新しい構造のスタジアムがあると聞きました。イベントのときはグラウンドが持ち上がるような、そんなスタジアムを日本でつくれないかと思っていますが、いかがですか。
高木 実は、その技術は研究が進み、いつでも実証できる状況です。
片平 楽しみですね。最後に、玉塚さん、今、リーグワンに寄せる何かとんでもない夢がありましたら、一言お願いします。
玉塚 ラグビーというコンテンツだけでなく、スポーツコンテンツ全般は、これから逆にデジタルに行けば行くほどまた注目を集めていくと思いです。ですから、ラグビー日本代表を強くするというのは大きなテーマで、コンスタントに世界のベスト8、ベスト4に入るようにならなくてはと思います。そしてもう一度、あのラグビーワールドカップを日本に持ってきたいですね。そのためには、日本のこのリーグが盛り上がってアジアでナンバーワンの、世界と伍して戦えるリーグになる、クロスボーダーがどんどん起こる。そういったものをつくっていく。リーグワンがあるすべての街で「あなたの街から、世界最高を作ろう」が実現するのを目指したいですね。今、生みの苦しみですけど、これはしっかりやっていきますので、ぜひ、よろしくお願いします。
片平 本日はありがとうございました。
(Interviewer:片平 秀貴 本誌編集委員)
《ゲスト》
秋庭 愛子 すでに9都道府県、16会場を制覇し、リーグワン全週末観戦を狙う熱い「にわかファン」
高木 佳子 スタジアムの企画から建築に関する仕事に携わり、スポーツで地域を元気にする達人

玉塚 元一(たまつか・げんいち)氏
株式会社ロッテホールディングス 代表取締役社長CEO
*記事冒頭の肩書と合わせますか?(一般社団法人ジャパンラグビーリーグワン理事長)
1962年東京都生まれ。1985年、慶應義塾大学法学部卒業。同年4月旭硝子株式会社(現AGC株式会社)入社。1997年12月に米国ケース・ウェスタン・リザーブ大学経営大学院にてMBA取得。1998年6月に米国サンダーバード大学大学院にて国際経営学修士号取得。
1998年7月日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。同年12月、株式会社ファーストリテイリングに入社。2002年11月に同社代表取締役社長兼 COOに就任。2005年9月に企業の再生や事業の成長を手掛ける企業、株式会社リヴァンプを創業し、代表取締役社長に就任。その後2010年11月、株式会社ローソンに入社。同社取締役副社長執行役員COOを経て、2014年5月より代表取締役社長、2016年6月に代表取締役会長CEOに就任。2017年6月、株式会社デジタルハーツホールディングス代表取締役社長CEOに就任。2021年6月株式会社ロッテホールディングス代表取締役社長CEOに就任、現在に至る。
一般社団法人ジャパンラグビーリーグワン理事長、公益社団法人経済同友会副代表幹事、株式会社千葉ロッテマリーンズ取締役オーナー代行、株式会社ロッテ取締役も務める。
片平 秀貴 氏
丸の内ブランドフォーラム 代表
*本記事は、『マーケティングホライズン』2022年第3号(4月1日発行)に掲載された内容を、Web版として再掲したものです。
本誌「マーケティングホライズン」の編集委員長・片平秀貴さん。自らが取材をしたり、執筆したりすることはあっても、自身が責任者という立場の冊子において、「インタビューを受ける機会」というのは、当然ながらこれまでにはありませんでした。今回のテーマは「わたしとわたしたちのこれから」。片平さんはこれについてどう考えているのか、本誌編集委員の見山謙一郎、子安大輔の両名がぜひ聞いてみたいということで、異例のインタビューとなりました。
───片平さんは、いわゆる「マーケティング」の領域に長年身を置いてこられました。改めて、この世界に足を踏み入れることになったきっかけは何だったのでしょうか。
片平 その前に一言いいですか。この号はおかげさまで「わたしとわたしたちのこれから」を考えるのにふさわしい、豊富な引出しをお持ちの識者の方々にご登場いただきました。それに比べて実のない裏方が表に出て、もっともらしくインタビューを受けるのはいかにも格好悪い。ただ本誌の編集で長くお世話になった見山、子安のお二人から「片平に斬り込みたい」と私的には大いに戸惑うご提案があったので、恥ずかしながらお受けした次第です。
 さて、本題ですね。学生時代に元々興味があったのはミクロ経済学です。マクロの世界の大きな話ではなく、消費者というものをこんな風に捉えるんだというところに、新鮮な興奮を覚えたものです。大学2年生の時(1967年)にフィリップ・コトラーの『Marketing Management』を手にとったのが、マーケティングとの初めての出会いですね。この本で扱っていたマーケティングというのは言わば「応用・応用経済学」のようなもので、かなりロジカルな内容でした。
───研究者としては、最初からマーケティングを専攻していたのですか。
片平 大学院では「マネジリアルエコノミクス」というテーマに取り組んでいました。これは企業活動をミクロ経済の概念や手法で分析しようとしたものですが、そのミクロの理論だけではどうやっても説明しきれないことがあります。そこには組織論があったり、後に出てきた行動経済学的な要素があったりしました。
 そんな中で自分自身が何に興味があったかというと、やはり「消費者行動」だったんです。特に自分自身の。貧乏学生の一人住まいだったので、よく行く町の中華屋で五目焼きそばに餃子を追加するかどうか迷ったりしていて、これはどう説明が付くのかとか。そのような消費者行動を勉強する分野は何かというと、それがマーケティングでした。あくまで入り口は消費者への興味ですね。
───ちなみに、その時はどなたかに師事していたんですか。
片平 当時の僕は二人の先生についていて、企業経済は宮下(藤太郎)さん、マーケティングは大澤(豊)さんという方でした。お二人とも「先生」が嫌いで、「さん」とお呼びしていました。ただ、大澤さんもどっぷりマーケティングの人というわけではなく、元々統計学の世界から来ていましたから、かなり数量的なアプローチでしたね。
───そこからマーケティングの深みに入っていくわけですね。
片平 しばらくは「マーケティングサイエンス」というテーマに没頭していました。データをロジカルに解析していく、今で言うところの「データサイエンス」ですね。特に、消費者データの分析に嵌りました。そうした領域で新しいことを考えるのは、それはそれで醍醐味がありました。
 僕はアメリカは奥手で、1983年にカナダの帰りにMITに寄ったのが初めてでした。当時は東大に来たばかりでしたが、阪大時代から付き合いのあったJohn LittleやJohn Hauserを訪ねて、怖いもの知らずに、当時の米国の最新の研究を痛烈に批判した研究を発表しました。
 でもアメリカのいいところは、そういう時の懐の深さで「なるほど。Hotakaの主張は実に示唆的だ」なんて話を聞いてくれるもんだから、アメリカのマーケティングサイエンスの世界に次第に組み込まれていったんです。米国の学会に誘われて発表していくうちに「教えに来ないか」と複数の大学から声を掛けられ、1991年にUCバークレーで、1992年にウォートンで教えることになりました。
───片平さんといえば「ブランド論」のイメージが強いですから、昔はデータサイエンスの世界にどっぷり浸かっていたというのは意外な感があります。「ブランド」というテーマにご自身の興味が向いたのには、どんな理由があったのでしょうか。
片平 UCバークレーで同僚だったDavid Aakerと仲良くなりました。彼は僕より10歳年上で、当時はマーケティングサイエンスの重鎮の一人でした。でも、彼はちょうどその年に『Managing Brand Equity』というタイトルで、ブランドに関する本を初めて出版したんです。彼とは週2、3回ランチを一緒にしていたのですが、本を出したばかりなものだから、ブランドに関する話ばかりしてくるんですよ。「おい、Hotaka。もうマーケティングサイエンスなんて退屈だからやめておけ。これからはブランドだ。一緒にブランドについて研究しよう」としきりに言ってくるんです(笑)。
───そんなきっかけがあったんですね(笑)。それからすぐに研究のテーマを切り替えたんですか。
片平 いやいや、頑固にマーケティングサイエンスを続けていました。1995年になって博報堂の杉本進さんという雑誌『広告』の編集長から「ブランドについて連載をしませんか」というオファーをもらったんです。最初は半分道楽みたいな軽い気持ちで始めました。それからブランド力があるとされる企業にあちこち取材をしたわけですが、そうすると「これは大変なことだぞ」と、どんどん認識が変わっていきました。価格や宣伝のようなことではない、それぞれのブランドが持つ「世の中を変えたいんだ」という強烈な熱を感じるようになっていったんです。
───その頃に取材をした先で、印象に残っているところはありますか。
片平 例えば、シュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ。皆、上から目線の怖い人ばかりに違いないと恐る恐る訪問すると、会う人会う人皆優しい。聞けば、ブランドとして大事なのは人々が自由に安全に動けること、つまりモビリティなんだと。だから、ベンツでは乗用車だけではなく、タクシーやトラック、さらには機関車までつくるんだというわけです。そして、後にCEOになったツェッチェさんからは「うちの財産は人。モビリティの家元としてのプライドと人間としての優しさを併せ持っていてほしい」と聞いて、これはとんでもない世界に入り込んだと思いましたね。
───説得力がありますね。
片平 工場に行くと、おじいさんの代から3代続けてその工場で働いているなんていう人がいて、組立てライン上のクルマを撫でるようにして自分の仕事への愛を語ってくれるんです。そんな風に全員が一丸となっていて、その熱量が半端ないんです。これはフィレンツェのグッチに行っても、米国のナイキに行っても、同じでした。そういうブランドの奥深さを知るほどに、「もうこれはマーケティングサイエンスをやっている場合じゃないな」と思って、どんどんブランドの世界にのめり込んでいきました。そして1998年に『パワーブランドの本質』という本を出すことになりました。
───そこからは現在に至るまで一貫して、ブランドに対する関心が失われていないのでしょうか。
片平 変わらず、というかますますですね(笑)。2000年に入ってブランド力のきちんとした物差しをつくりましょうということで、日経BPの千葉専務(当時)と力を合わせて「ブランドジャパン」を創設しました。いま20余年たって多くのブランドの道しるべになっているようでうれしいかぎりですが、僕自身は一歩その先にということで、数年前から「ブランド生態調査」という新しい試みを実施しています。これは7,000人にアンケートを行って、衣食住から買い物先、メディア等々12の領域で好感を持っているブランドとその好感理由を自由想起で挙げてもらうというクレージーな調査です。
 そのデータを見ていくと、「製品としての品質が良いだけではなく、消費者の声に常にこたえようとする精神に親しみが持てる」(パナソニック)とか、「カスタマーセンターのスタッフが皆やさしい」(関西電力)、「環境に配慮した企業としての取り組みに共感できる」(サントリー)等々、ブランドを元気づける言葉にばったり出会うことができます。そこには「人々の自然なナマの声」があるんですね。コロナ禍の影響も手に取るように見えてきます。これらのデータから数百個の代表的ブランドを二次元空間にプロットして、自由に各ブランドについてファンの特徴や好感理由、ファンを共有する他のブランドを瞬時に浮かび上がらせる「ブランドの森」というツールも開発中です(JMAで4月12日にその発表会を開催します)。
───「ブランド」については1990年代の後半頃から、世の中的にもホットなトピックになっていきました。そういう流れをどのような目で見ていましたか。
片平 僕から見るとすごいブランドで、ぜひ学びたいケースに限って、当事者たちはむしろ「ブランド」という言葉を使われたくないということが多かったですね。和菓子の老舗や名門文房具店も「ブランドの取材」と伝えただけで構えることが多かったですし、「そんな大層な話はできません」と断られたりもしました。
───本人たちはブランドを意図して育てたつもりはないんですね。真面目に熱のある企業活動を継続していった結果、外から見れば勝手にブランドができあがっていただけなのかもしれません。
片平 最近、気楽に「ブランディング」という言葉がよく使われていますね。この言葉が使われるようになって、ブランドに関する議論が一気に軽薄になった気がします。うちのゼミでも、学生には「『ブランディング』という言葉を使ったら、即クビだ」と冗談半分で言っています(笑)。
───そのあたりをもう少し聞かせてください。
片平 「~ing」はそのまま日本語では「~すること」ですね。例えば、「ネーミング」は「名前を付けること」。名前を付ければ名前が付きますから、これはそれほど違和感がありません。もともとbrandは動詞だと“assign a brand name to(~にブランドの名前を付ける)”という意味なので、brandingはネーミングと大差ない言葉なんですね。ところが日本では「ブランディング」がブランドをつくる作業の意味で使われています。その裏には、ブランディングをすると良いブランドをつくることができる、という危ない安易な思想があることが窺われます。
 皆に慕われる多くのブランドは樹木と同じように自分に合った土壌と風土に恵まれて時間とともに育ってきていて、決して安易な「ブランディング」という作業でつくられたものではありません。講演などでよく「最近頭角を現したブランドはありますか」という質問をいただきます。上述した「ブランドの森」で去年あたりから目立ってきたものの一つに「バルミューダ」がありますが、このブランドも2003年に生まれていますから、ほぼ20年かかっているんですね。
 似たような議論は、「~ing」が付いている「マーケティング」にも当てはまるのではないかと思います。本誌の今年1月号で「わたし的マーケティング」というテーマで、編集委員のそれぞれが自分の思うマーケティング論を展開しました。面白かったのは、誰一人胸を張って「私はマーケティングの専門家です」のようなことを書かなかった点です。皆さん、どこかで自分の立場や考えを留保しているんです。マーケティングというものを心のどこかで懐疑的に見ている人が実は多いということではないでしょうか。僕自身もさすがに「マーケティングはあやしい」と大きな声で言うわけにはいきませんから、原稿では遠回しに指摘したつもりです。
 実はビジネスの各領域で人々と社会の幸せに正面切って向き合っているのは「マーケティング」しかありません。その意味で「~ing」なのは気になりますが(笑)、マーケティングの純化というか洗浄が必要な気がします。JMAの仕事ですね。
───言われてみれば、「私はマーケティングの専門家です」と自認している人に限って、本質ではなく、どこかHowの話に終始しているような印象があります。そして消費者をそんな簡単にHowでコントロールできると思うのは、傲慢としか言いようがないですね。
片平 この『マーケティングホライズン』で、ずっと言い続けてきたことの一つは「すぐに使えるような議論はやめよう」というものです。この点は12年間、曲げてこなかったつもりです。そんな表層的なことではなく、むしろ、すぐには役に立たないこと、一見すると無駄っぽいこと、遊びの要素があるもの、そんなものの中に本質が潜んでいると思ってやってきました。
───少し話は変わりますが、片平さんと言えば「片平ゼミ」という東大の学生が集まるゼミを長年主宰されています。不思議なのは、東大の教授を随分前に退官されていますから、今のゼミは大学の公式コミュニティではないことです。そのあたりについても教えてください。
片平 ゼミは東大の3年生と4年生を対象にしたものですが、今年で40周年になります。僕にとって大切なコミュニティですから、毎年希望者に対して相当の時間を掛けて面接をして選抜しています。
───どういう基準でゼミ生を選んでいるのでしょうか。
片平 ポイントは2つあります。1つは「明るいこと」。やっぱりどんなときでも気持ちよく挨拶を交わせるような仲間であって欲しいです。そしてもう1つは「狙っていないこと」。この狙っていないというのは、結構大切なことなんですよね。
───「狙わない」というのは、先程の「ブランディングという言葉に抵抗がある」というお話とどこか繋がっているような気もします。ちなみに、片平さんが教授を辞めたのは随分前のことですが、普通ならばそこでゼミ自体も終了となるはずです。それが今に至るまで続いているのはどういうことですか。
片平 僕は2004年の春に東大の教授を辞めました。そうしたら、当時の3年生たちが「先生は俺たちを捨てるんですか」なんて迫ってきたんですよ。じゃあ仕方ないから、毎週火曜日夕方の2時間だけみんなに時間をあげるよということで、僕のオフィスに集まるようになったんです。ただ、ゼミというのは下級生が入ってこないと仕方ありませんから、新年度の募集もすることになりました。
───募集するといっても、すでに大学のオフィシャルな存在ではなかったんですよね。
片平 上級生がゼミ紹介を行うんですが、実に不思議なことに、東大の公式ゼミ紹介にうちのゼミもずっと入れてくれているらしいんですよ。もちろんこのゼミは単位が出ませんが、ここのところ応募者はなぜか激しく増えています。学生たちと気軽に話ができるというのはうれしいことで、僕自身とても楽しんでいますし、今や僕の方が教えてもらうことも多いですね。
───それにしても40年も続くというのもすごいことですね。
───最近、関心のあることはどのようなものですか。
片平 僕の関心は、以前からずっと変わらずにブランドという現象の勉強ですね。いいブランドの現場にあって他にないものは「熱」です。その意味で別の言い方をすると、「熱のある集団」の勉強ということになるのかもしれません。熱はどこから生まれるのか。熱が持続する仕組みは何か。いいブランドを預かる人たちに会っていていつも強く感じるのは、彼(女)らが明るく優しい人であること、人の話を真剣に聞くこと、どこか無邪気なことの3つです。
 この人たちが集まるとなぜ熱い集団になるのかはまだ分からないことが多いですが、2つ重要なことがあります。1つはそのような次世代を育てること。もう1つは、そのような集団が燃え尽きないように「燃料」を送る仕組みをつくることです。その燃料というのは、人々からの感謝、激励、称賛です。
 できているかどうかわかりませんが、片平ゼミは前者(次世代育成)を目指しています。また、意外かもしれませんが、「ブランド生態調査」は後者(燃料供給)が一番の狙いです。この調査の大きな目的は、ファンの感謝や激励の声をブランドに戻してあげることなんです。
 「ブランドの森」というツールでは、社員全員が簡単に自分のブランドのファンの声を聞くことができます。先日も公文の人が、「世界で利用されている教育方法。自分が子供だったら学びたかった」という声を聞いて、大いに喜んでいました。
 最近、熱いブランドのたった一つのアクションが、実に多くの人を幸せにしているという事例に出会うことが多くなりました。良品計画の河村玲さんから聞いた「無印良品 直江津」はその一つです。新潟県の直江津に世界一大きい無印良品の店舗をオープンさせました。「地域を巻き込む」のではなく、「地域に巻き込まれる」ように河村さんチームが十分時間を掛けて必死で地域の皆さんと交流した結果、直江津の皆さんに喜ばれ、感謝されているそうです。
 熱は一人の人が火種となって始まります。僕の夢は、その火種が一人でも多く生まれて、これからの(日本、世界、地球上の)わたしたちがより明るく愉しい生活が送れるようになることです。小さな努力を重ねていきたいですね。
───本日はありがとうございました。
(Interviewer:子安 大輔、 見山 謙一郎 いすれも本誌編集委員)

片平 秀貴(かたひら ほたか)氏
丸の内ブランドフォーラム 代表
2001 年、「丸の内」ブランド再構築のお手伝いがきっかけで丸の内ブランドフォーラム(MBF)創設。「社会に笑顔の火種をつくる」の信念のもと、同志とブランド育成の勉強と実践を続けている。
2010 年から本誌編集委員長。併せて 2019 年に東京21世紀管弦楽団の創設を手伝う。
趣味は仕事とラグビー応援。