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井上 大光 氏
東慶寺 住職
今号のテーマである 「読むこと、書くこと、考えること」 を編集会議で検討していた際、 「写経」についてとりあげてはどうか、との案が出ました。確かに写経は最もシンプルかつ歴史ある「読む、書く、考える」の三位一体的行為とも言えます。早速、北鎌倉・東慶寺の井上大光住職を訪ねました。
───井上さんから取材のご快諾をいただいた際、「取材の前に(東慶寺で)写経をしてください」とのことでしたので、自宅で何度か練習をし、先ほどここで一枚書きました。
実際に写経を行う前に描いていたイメージは、般若心経の一文字一文字を書くことで無の状態に近付き、だからこそその意味が自らの中にすっと入ってくる、そういう「読む、書く、考える」が一体化した行為かなと思っておりました。
ところが、実際に自分で書いてみると、無心になる余裕など全くなく、今日で5回目の写経でしたが、回を重ねるにつれ、確かに文字は整ってきましたが、一方で書けば書くほど時間が掛かるようになっていきました。書くほどに、それぞれの文字の意味や般若心経についての関心が自ずと深まり、それらを本で調べたり、読経をBGM代わりに流したりしているうちに、単に文字を機械的に書き写す時間ではなくなってきました。考えたり味わったりしながら書くようになったため、時間を要するようになり、実は今日こちらで書いた一枚がもっとも時間がかかり、いつもの2倍近い時間となりました。
井上 ご自身のリアルな体験を通じてどう感じたのか、その体験こそが写経の価値だと思います。
───先ほど写経場で写経をさせていただきましたが、最後に願意を書く段になり、日頃いだいている自分の中の小さな欲など取るに足らない、もはやどうでもいいことだ、と思えたことに自分自身が一番驚きました。
と言うのも、一文字一文字の意味を自分なりに咀嚼しつつ書き進めていくうちに、仏様とは言わないまでも、鳥の目で世界を俯瞰している感覚を覚えたのです。般若心経には「無」や「空」などの字も多く、また、増えることも減ることもない、生きるとか滅するとか関係ないと繰り返し登場します。書いているうちに「ならば、どうでもいいか」という気持ちになり、気持ちが楽になりました。囚われていたものが一枚一枚剥がされていくような感覚です。
先ほど写経に際していただいた説明書の中に願意の記入例がありました。 願意例の一番目に 「世界平和」とあり、以降「無病息災」「心身健康」「家内安全」…と続いていました。実は、最初見たときは「世界平和」が一番にあるなんて大袈裟過ぎる、そんなことを書くご立派な人がいるのかしら、と感じたのですが、書き終わり、願意を書く段になり、まさに自分がそのひとりになっていたのです。「世界平和」の意味をこんなに自分の中に感じたことはありません。不思議な気持ちです。
井上 それは大正解です。我々の言葉で言うと「解脱」という境地です。苦しみや囚われ、執着から解放されるのが解脱という状態ですが、写経を通じて得られる大きな功徳の一つです。
そこまで苦労して書いたら、その経験はそうそう忘れません。スマホやパソコンがこれだけ普及し、わたし自身も筆を持つ機会は減っています。一方、写経はアナログ中のアナログ、極めて非日常的な行為です。自分で墨をすり、日頃持たない筆を用いて、260を超える文字を一文字ずつ書いていく。非常に手間がかかります。日常にはこんな時間も経験もありません。まさにこの非日常性が現代における写経の大きな魅力のひとつでしょう。実際、非日常的なアトラクションを楽しむ感覚でお見えになる方も中にはいらっしゃいます。
しかし、きっかけはなんであれ、こうした体験こそが、人生にとって価値のあるものであり、最終的に自分を助けてくれるものではないでしょうか。付け焼き刃や一夜漬けではなく、面倒くさい思いをして手に入れたものや苦労して勝ち得たもの、自分の手を動かしたからこそ手に入ったものからしか得られない何かがあります。今は難なく情報を得て、気軽に自分の知識として人生を泳げてしまう時代ですが、自ら苦労して勝ち得た体験こそが自分の礎になるのではないでしょうか。写経にはそうした一面があると思います。
───写経を終えた今は、ちょっと不思議な感覚です。自宅で書いたときとはまるで違う感覚です。東慶寺さんには白蓮舎という立派な写経専用の空間がありますが、この「場」による作用も非常に大きかったと思います。室内の香りや、窓の向こう側の庭木の様子など含め、五感のすべてで写経に臨めたと感じます。写経のために、このような環境を整えられているのはどうしてでしょうか。
井上 この白蓮舎という建物は30年ほど経っていますが、実はほとんど使われていませんでした。しかし、お寺のあり方としてそれはどうなのだろうか、と思うようになりました。
コロナ禍にその問題を突き詰めて考える機会がありました。観光地である鎌倉の人流を抑制するために観光施設は閉鎖を余儀なくされることも多く、多くのお寺も追随しました。しかし本来、宗教施設とは祈りを捧げに誰もが訪れることのできる、神聖でありながらも開かれた空間であるべきなのではないか、との考えも大きくなりました。
そこで、2020年7月より拝観料を廃止いたしました。拝観料の是非ではなく、自分自身が考える宗教施設としてのあるべき姿へのこだわりです。常に開かれたお寺として存在するのであれば、写経も予約不要で毎日できるようにし、気軽に訪れていただけるようにしました。
───これほど手間と時間がかかる写経ですが、そのはじまりは天武天皇の時代、673年との記録もあります。実に1300年以上続いているわけです。しかも、時短や効率化が叫ばれる現代においても、写経に訪れる人は絶えるどころか、むしろ増えているのではないでしょうか。写経の何がこの令和の時代にあってもなお人々を惹き付けているのでしょうか。
井上 基本的に写経とは祈りの行為です。さらに元をたどれば、コピー機のない時代のお仕事です。中国から仏教が伝来し、お経が書いてあるお経本が日本に入り、これをみんなに広めたいからみんなで書き写そう、と。昔はそうした仕事があり、職人さんたちがいました。それが平安時代になり、貴族の人たちややんごとない方々がお経を書き写して、お寺に奉納してご祈願をするという祈りに変わりました。時代ごとの変化はありますが、共通しているのは祈りです。何の祈りであれ、そういう気持ちでお写経をし、観音様にお供えするのがやはり良いのではないでしょうか。健康第一、必勝祈願、合格祈願など、現代でも基本は祈願ですよね。アトラクション感覚であったとしても、まずは写経に触れることが大切なのです。
お経は読んだ人、書いた人に功徳(神社で言えばご利益)が積まれます。一生懸命読んだり書いたりすることで、その人に備わった功徳を観音様や仏様にお供えし、「わたくしが積んだ功徳をお供えしますので、どうかほんの少しだけでもわたくしの願い事にも耳を傾けていただけませんか」という順序になるわけです。ですから、写経をしたのであれば、まずは奉納をお勧めしています。写経用紙を記念に持ち帰る方もいらっしゃいますが、せっかくの功徳をお供えして願われた方が良いのではないでしょうか。
祈りを捧げるということまでがお寺における写経の意味であり、東慶寺における白蓮舎の存在意義です。
───ところで、拝観料を廃止したことは非常に重い決断だったのではないでしょうか。写経のための会場をはじめ、東慶寺の施設維持や庭園管理には人手も要します。何が井上さんをそこまでさせているのでしょうか。
井上 決断をし、実行に移してからしばらくは本当に大変でした。しかし、先ほど申し上げたような自分なりのお寺のあり方は譲れませんでした。誰にでも開かれた神聖な場所であること、そこにこだわり続けていくことで、やがてお寺自らがそうなっていきます。ですから東慶寺のHPでそのこだわりを発信し続けてもいます。
こうしたことにより、どのような時代になっても必要とされる寺になると考えます。わたしが住職をしている期間なんて、長くてあと30年ぐらいでしょう。いつかは誰かにこのお寺を引き継がなきゃいけないわけです。神聖な場所としてみんなに必要とされているお寺、お花がきれいに咲く時期だけ観光客が来るのではなくて、信心深い人が足繁くお参りされるお寺にしておけば、時代が変わってもずっとそういう佇まいや意思が脈々と受け継がれていき、再びコロナみたいな時代が来ても乗り越えていけるはずです。これまでも人々に必要とされ、意味や価値があるからこそ、こうして受け継がれてきたのでしょう。これほど進化したデジタルの時代であっても、不思議なことにそれだけで十分だとはなりません。スマホやAIと墨や筆が共存していく。やはり表があれば裏があるように、そこには何かしらの意味、価値があるのでしょう。
───これから先の千年、この東慶寺をどのように維持し、次代へとつなげていくお考えでしょうか。
井上 東慶寺には700年の歴史があります。その間、順調な時代の住職もいれば、困難に直面した住職もいました。その時々の住職が次の世代のために懸命に努め、それを繰り返して今に至ります。
以前、裏千家のお家元が非常に印象的なことをおっしゃっていました。「我々お茶の世界の家元というのは、野球の中継ぎピッチャーみたいなもの」だと。千利休が先発ピッチャーで、あとは全員中継ぎピッチャー。中継ぎにもさまざまな役割がありますが、お茶の世界でいえば、栄華を極めるいい時代に家元になる人もいれば、立て直しが必要な時代に家元になる人もいる。それぞれその時々の役割と責任がありますが、マウンドに上がった以上は全力で投げ切らなければなりません。
東慶寺においても、次の住職、そしてその次の住職たちに「あのとき井上住職がこれをやっておいてくれたおかげで助かった」と思われることを、できるだけ多く残したいと考えています。逆に、余計なことをしてくれた、と思われることは避けるべきです。時代によって何が正しいのか、それは変わっていく部分もあります。しかし、後の世に受け継いだ人にとってマイナスになるようなものは残してはなりません。どの業界でも同様でしょうが、「やらなくていいことはやらないほうがいい」というのが鉄則です。
拝観料を廃止したことで経済的には確かに苦しくなりました。しかし、新たな道が拓けたりもするものです。ギリギリの状態だからこそ、さまざまな工夫を凝らすことができます。特に臨済宗はその傾向が強いのではないでしょうか。
不要なものをどんどんそぎ落として、本質に迫る。お寺の建築も極めて簡素です。可能な限り無駄を省き、必要最低限の形で本質に向き合い、突き詰めていく。自立しているお寺として次の代へ渡していく。わたしにできるのはそれだけです。
───本日は目が覚めるような写経体験だけでなく、お寺のあり方に至るまで写経を通じて世界が広がりました。貴重なお時間とお話、ありがとうございました。
インタビューは観光客もまばらなしんしんとした寒さの一月下旬の平日、本文中にも登場する東慶寺・白蓮舎で行われた。芽吹きを待つ色のない庭木の中、春の訪れを告げる蝋梅の黄色が磨き上げられたガラス越しに見えていた。
インタビュー前の写経。無駄なものは何もなく、静謐な美しさに満ちた空間で墨をすり、一文字書くごとに呼吸と姿勢を整えた。そういう動きが自ずと促される空間であり、時間だった。
井上住職は「お寺としてのあるべき姿」をとことん追究し、その実現に日々取り組まれている人だった。企業経営に置き換えるならば、まさにパーパス経営。業界の常識や成功体験に甘んじることを是としない覚悟がひしひしと伝わった。そのことの具体を語る言葉は少なくとも、身を切る覚悟で臨むとはこういうことを指すのだろうと、その潔さと信念は強く響いた。
次の代、さらにその次の代、そしてそのずっと先。その時々の正解は違えど、存在し続けるために必要な意義の核心を得た井上住職にブレはない。主(あるじ)のそうした信念が白蓮舎の空気を作り、書くことによる内観の特別な時間を生んでいる。
蛇足なのは重々承知のうえで付け加えると、これこそマーケティングのあるべき姿だ。
(Interviewer:ツノダ フミコ 本誌編集委員長)
井上 大光(いのうえ だいこう)氏
東慶寺 住職
昭和58年、前住職 井上正道の二男として生まれる。
大学卒業後、円覚寺専門道場 横田南嶺老師の元で修行。
平成25年より住職に就く。
佐野 大樹 氏
アナリティカル・リングイスト
コロナ禍において、言語学を生業にしてきた人間にとってひどく心配させられる記事があった。リモートワーク中「もうこの仕事やらなくていいよ」という上司のチャットのメッセージを見て、部下が退職してしまったという記事だ。上司は部下を気にかけて「仕事の量を調節してあげよう」という意図をこの言葉で表現しようとしたが、部下は「自分はもうこの仕事に必要ない」と解釈したそうである。
現在はまた多様なコミュニケーションスタイルが可能となったが、言葉を解釈する側の思考と表現する側の思考の不一致によって起こる問題は、いまだに様々な場面で見受けられるように思う。言葉を表現する側も、言葉を解釈する側も、自身が存在する状況に応じて言葉の意図を考える。そのとき、お互いの状況全てが共有されるわけではなく、文脈が違えば書かれた言葉と読まれた言葉の意味に差異が生じてしまうのは、避け難い問題のようにも思える。
では、言葉を書く側も読む側も、対話を成立させるためには何が肝要になってくるだろうか。私は、そこで鍵となるのが「シェアード・ディスコース」というコンセプトであり、それを達成するのに活用できるツールのひとつが生成AIなのではないかと考えている。
言語学では、会話や文章とそれを取り囲む文脈、状況や文化を含めて、「ディスコース」と呼ぶ。例えば、先ほどの「もうこの仕事やらなくていいよ」のディスコースは、その発言だけをさすのではなく、話し手と聞き手が置かれた状況、所属する企業・社会の文化や背景なども含めたものになる。
インターネットやSNSが発達した現代でも、自分が経験したことのないディスコースにアクセスすることは、必ずしも容易ではない。ネットを介して、多様なディスコースの文章や会話にアクセスすることはできるようになったものの、その背景にある状況や文化を踏まえて言葉を読んだり・書いたりすることは、言語の壁、物理的距離の壁、専門性の壁、社会的距離の壁など、様々な要因によって制約される。
このような壁を溶かして、自身が所属するディスコースだけでなく、さまざまな社会やコミュニティーとディスコースを共有するという選択肢のことを、私は「シェアード・ディスコース」と呼んでいる。言葉を読み、書き、そして、それについて考えるときに、様々なディスコースを観点として、表現された・解釈された言葉だけでなく、選ぶことができた他の選択肢、および、その背景を考えることができれば、言葉を平面的に捉えるのではなく、解像度を上げて、多角的に言葉を表現・解釈することができるのではないだろうか。
では、ディスコースを踏まえつつ言葉の表現・解釈の選択肢を考えるにはどうすれば良いのだろうか。もしも「あなたのディスコースについて説明して」と対話者に聞かれたら、どのように文脈や背景を説明すれば良いのか、考え込んでしまうようなこともあるだろう。私は、そこで活用できるのが、言語学のディスコースを捉える枠組みと生成AIとの対話ではないかと考える。
ひとくちに言語学といってもさまざまな理論があるが、Systemic Functional Linguistsと呼ばれる機能言語理論では、「状況のコンテクスト」という枠組みを用いて、ディスコースを記述する。この言語理論では、言葉の選択に影響する主なコンテクストの要因として、「フィールド」「テナー」「モード」の3つがあるとしており、それぞれ以下のように定義している。
この枠組みを用いてディスコースにアプローチすることで、文脈や背景といった漠然としか見えないようなものも、解像度を上げて説明することができるようになる。フィールド、テナー、モードを観点とし、それぞれのパラメータとその値を記述し、それをコンテキストとして捉えるというわけである。
このように、言葉の文脈や背景について記述することを、私は「コンテクスト・プロファイリング」と呼んでいる。例えば簡単な例として、この枠組みを用いて、数学の授業のコンテクスト・プロファイルは以下のように記述することができるだろう。我々は言葉を選ぶ際に、実はこのようなコンテクスト・プロファイリングを無意識に行っていると考えられる。特別なスキルではなく、あくまで、無意識に行っている行為を明示的にする過程と考えていただきたい。
コンテクスト・プロファイリングを用いて、解像度を上げてディスコースを捉えるスキルを獲得できると考えるが、それ単体だけでは、様々なディスコースを観点として言葉を表現・解釈できるようになるわけではないだろう。分析スキルをもっていても、様々なディスコースと接する機会が無ければ、ディスコースごとに可能な言葉の表現・解釈の選択肢がどういったものなのか把握できないためである。今までは、多様なディスコースを「経験」する、または「適応」できるか否かが、言葉の選択肢を考える力に大きく影響を及ぼしてきたのではないかと考える。多様なディスコースを経験するには、時間にも機会にも恵まれている必要があった。しかし、今、我々は生成AIという選択肢を持っている。
生成AIは、言語の壁、社会の壁、コミュニティーの壁、物理的距離や専門性の壁を超えて、ひとりの人間が一生かかっても経験することができない量の言葉をデータとして、構築されている。この強みを生成AIとの対話で言語学の知見を踏まえながら活用することで、シェアード・ディスコースを構築して、言葉を考える力を養っていくことができるのではないかと考える。
冒頭の例について考えると、上司は、部下のフィールド・テナー・モードで「もうこの仕事やらなくていいよ」という言葉がどのように解釈される可能性があるか、同じ意図を伝えるにしても他の表現の選択肢にはどのようなものがあるか、生成AIに選択肢を提示させることで、部下のディスコースにおける言葉の選択肢を擬似的にシミュレーションできるのではないだろうか。同様に、部下は、上司のフィールド・テナー・モードで「もうこの仕事やらなくていいよ」はどんな解釈の選択肢があるのかを生成AIに回答させ、上司のディスコースにたって、発言を捉え直すことも可能になるのではないだろうか。例えば、生成AIとの対話の具体例として、以下のように、フィールド・テナー・モードを記述して、生成AIに質問することができるだろう。
プロンプト
以下のコンテクストで、部下に「もうこの仕事やらなくていいよ」と伝えようと思います。部下は、この表現をどう解釈する可能性があるか、解釈の選択肢を考えてください。また、この表現以外には、どのような伝え方があると思うか、いくつか提案してください。
フィールド:
– 出来事: プロジェクトの仕事の割り振りの調整
– 参与者: 自分 (上司)、部下
テナー:
– 自分と部下の関係: 上下関係
– 自分と部下の距離: プロジェクトメンバー、仕事での付き合い
モード:
– 目的: 部下に、仕事の量を調節するために、この仕事はもうやらなくて良いと伝える
– 形式: リモートワークのためチャット形式での伝達
すると生成AI ()は、以下のように、部下の立場を想定して、言葉の解釈と表現の選択肢を提示してくれる。これを参考にしつつ、上司は自分の言葉の選択について、部下に伝える前に、考えることができるのではないだろうか。
生成AIの回答
部下が「もうこの仕事やらなくていいよ」という表現を解釈する可能性
部下がこの表現をどのように解釈するかは、様々な要因によって異なりますが、以下のような可能性があります。
ポジティブな解釈
ネガティブな解釈
その他の解釈
「もうこの仕事やらなくていいよ」以外の伝え方
部下への伝え方一つで、相手の受け取り方は大きく変わります。以下の例を参考に、より建設的な伝え方を検討しましょう。
理由を明確に伝える:
感謝の気持ちを伝える:
今後のことを話す:
もちろん、生成AIが常に全ての可能性を提示できるとは限らないものの、生成AIと様々なコンテクストを想定して言葉を考えることで、言葉の平面的な表現・解釈からの離脱のきっかけを掴むことができると考える。自身のhere-now (ここ・いま)に縛られた言葉の表現・解釈の選択だけでなく、第三者や他のコミュニティーのディスコースの立場になって言葉を考える練習場として、生成AIとの対話を活用するというわけである。
最後に、今後の社会で、言葉を読む・書く・考えるうえで、より必要になってくる力は何か、考えてみたいと思う。私は、それは主体性なのではないかと思う。
言葉が記号である以上、読むという行為も書くという行為も、言葉だけで意味が成立するわけではない。話し手・聞き手を取り巻く文脈が存在するからこそ、言葉は生きる。話し手も聞き手も、自身を取り巻くディスコースだけでなく、対話者のディスコース、さらには、他のコミュニティーや社会のディスコースについて生成AIを介して、シミュレーションできるようになることで、言葉を平面的でなくより多角的に考えることができるようになっていくのではないだろうか。
生成AIとの対話を介して、自分が今まで経験したことがないディスコースを、自分のディスコースに取り込んでいき、様々なディスコースを共有していくなかで、我々は、どのディスコースが有益か、優先されるべきか、自身の目的やゴールに合致するのかを判断できる必要がある。このとき、自身の言葉の表現・解釈の選択を、評価、分析、優先順位付けできるような「選択力」が求められる。この選択力が、我々の主体性を築いていくと考える。
生成AIの普及とともに、言葉を読むこと・書くことがより容易になっていく社会で、一般教養として言葉を考えるスキルの獲得がより重要になっており、人と人のコミュニケーション手段としての言葉だけでなく、人と生成AIとの対話手段としての言葉の役割に関する言語学的・言語教育学的な知見がさらに必要になっていくのではないかと考える。
参考文献
佐野 大樹(さの もとき)氏
アナリティカル・リングイスト
Googleで生成AIの開発に従事するAnalytical Linguist(アナリティカル・リングイスト)。オーストラリア国立ウーロンゴン大学にて選択体系機能言語理論の研究で博士(Ph.D)取得後、国立国語研究所で『現代日本語書き言葉均衡コーパス』の構築に従事。プロジェクト終了後、情報通信研究機構ユニバーサルコミュニケーション研究所にて、災害時の問題-対応策ツイートのマッチングや含意データベースの開発を行う。2014年より現職。著書には『生成AIスキルとしての言語学:誰もが「AIと話す」時代におけるヒトとテクノロジーをつなぐ言葉の入門書』(かんき出版)などがある。
前回まで見てきた‟幸運な偶然”と呼ばれているセレンディピティはどのようなジャンルでよく見られるのでしょうか。最近ではマーケティングにおいても、セレンディピティ消費という言葉を耳にする機会が増えてきました。セレンディピティ研究の現状を踏まえて、わたしたちの周りの身近に出現するセレンディピティへの気づきを考えてみましょう。
偶然をきっかけとするセレンディピティは、今日のような先の見えない不確実なVUCAの時代においても、組織や個人の日常のさまざまなシーンに不意に登場してきます。想定していなかった価値や新たな見方の出現は、個人のみならず組織においても新たな発見やイノベーションを生みだすきっかけともなります。
経営学者でイノベーション研究家のクリスチャン・ブッシュは、現在セレンディピティ研究が活発な代表的な分野として4つのジャンルを例にあげています。自然科学の「分子化学」、社会科学の「図書館情報学」と「経営学」そしてコンピューターサイエンスの「ヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI)」の分野です。これを見ると、セレンディピティ研究は自然科学分野のみならず、広範なジャンルに渡っているのがわかります。
本コラムでも取り上げたノーベル賞受賞の白川英樹博士の専門でもある分子化学の分野では、実験に際して精密に条件が統制されているため、トライアンドエラーが実施しやすく新たな発見に繋がるセレンディピティも発生しやすいと考えられます。
また、図書館情報学でも近年セレンディピティ研究が注目されるようになってきました。
図書館ではさまざまな資料を利用者により多くアクセスしてもらうために、利用者の資料探索行動が研究されています。特に目的の書籍がない状態で、漠然と本棚を眺めながら動き回る行動は「ブラウジング」と呼ばれます。放牧された牛が野原の草を求めてあちこちと動き回る意味から転じた表現ですが、ブラウジングにより利用者が予想していなかった素晴らしい本に出会うセレンディピティなチャンスが生まれます。同様に指定された分類項目にそって順に移動しながら閲覧する「トレーシング」という行動でも、思いもかけない書籍に出会うチャンスが生まれます。共に利用者が館内を自由かつ自然に動いている点にも注目です。セレンディピティ発見のヒントがここにありそうです。
「セレンディピティ消費」 という概念に端的に表れているように、 経営学の分野においてもこの分野への研究が活発になっています。 主要な経営学ジャーナル誌 『 FT 50 Journals List 2021』に掲載されたセレンディピティ関連の論文の50%が過去5年間に発表されています。さらにHCIに見られるような最新のAI活用やユーザーのデジタル空間の認知や心理の研究を通して、リアル空間における偶発的な発見と気づきをデジタル空間でも再現できるようなシステム作りが可能となってきました。
HCIとは人間とコンピューターとの新しい関係や相互作用を研究するもので、人のように考えるコンピューターというよりも人との協調性やインターフェースがスムースにできることをめざす分野です。AIに取って代わる新たな分野として注目されています。現実社会でセレンディピティが発生する環境要因をシミュレーションして、特に偶発性因子を構築して新しい気づきや偶然の出会いを生みだそうとするもので、セレンディピティ・ウォール(Serendipity Wall)やAR伝言板などの新たなプロジェクトがすでに始まっています。
セレンディピティとよく似た概念として「シンクロニシティ」があります。精神分析学者のユングが唱えたもので、“共時性”とも呼ばれます。例えばある人のことを考えていた時に、偶然その人からSNSが来たというようなシーンがシンクロニシティと呼ばれます。
両者ともに“偶然、偶発性”という要素を重視していますが、シンクロニシティはその偶然の一致そのものに注目し、そこにいろいろな意味づけが行われるものです。
これに対してセレンディピティは、“偶然”という要素をチャンスとして捉え、そこから主体的に新たな解に向けて取り組んで成功や幸運を得るというものです。セレンディピティはこのように偶然をきっかけとして前向きな方向へと進む動きが生じるところが特徴です。
わたしたちの周りには、気づかれていないけれどセレンディピティに繋がるものがすでにあるかもしれません。それをスルーしてしまうのか、うまくキャッチできるかが、セレンディピティ発見の大きな分かれ道となります。ある偶然が自分にとって“閃き”となり思いもかけない発見に繋がるという一連の流れは、いつもと違う何かの差異を感じる、わずかなテイストの違いをキャッチするというきっかけが必要になってきます。
同じものを見た際に何も感じない人と何か気づきや発見をする人がいることは、錯視(錯覚)の考え方で説明できます。みなさんも見方によっては老婆の顔に見えたり、若い女性の姿に見えたりする錯視図を見たことがあることでしょう。要は対象となるもののどこに注目して見るかということにあります。例えば野球部のある人を好きになった女の子が、遠くからずらりと並んで同じようなコスチュームを着た坊主頭の部員たちの中から、すぐに意中の人を判別することができます。これは興味の対象となった人が “図(figure)” となって注目されたために、他の人が“地(ground)”となって背景化しているからです。知覚心理学では“選択的認知”と呼ばれるものです。
セレンディピティとの出会いも、この「図と地」のように偶然あるモノや現象にたまたま注目した時に閃いて発見できるものです。その対象のどこに注目するかは人によって千差万別です。もちろん多くの人に共通した見方であるステレオタイプ的なものや常識的な見方などが、認知の際の一般的な基準となってきます。
しかし、小さな差異や変化の気づきといった他の人が気づかないようなところを偶然見つけるという行為には、他の人にはない“センサー”あるいは‟固有の基準”が必要となります。その多くは、特定のものへの興味、関心、好奇心あるいは問題意識といった熱量の高いこだわりが前提となっています。偶然見つけたものを幸運と感じるには、このようなものからなるセンサーに反応してキャッチできた時でしょう。
センサーや固有の基準がいくらあっても、周りに該当する対象が存在しなければ何もみつからないことは当然です。そのためには、当事者にとって周りに“変化”を引き起こす流動性が必然となってくるでしょう。より多くの情報、知見が、自分の持つセンサーにキャッチできる確率を高めてくれます。そのためには、“動くこと”が重要な要素となります。例えば多くの人に接する、勉強する機会を設けるなどで、異業種交流会、趣味やスポーツのサークル、テーマ毎のカフェ会などにおいて、さまざまな価値や見方、知見を知る機会を得ることができます。
同時に意識面でも“動くこと”が重要です。英文学者で思考論の外山滋比古は、「乱読のセレンディピティ」と称して、さまざまな書籍の乱読を勧めています。文系、理系を問わずさまざまな分野の本を乱読することによって、意識面でさまざまな化学変化が起きると述べています。また図書館や街の本屋などをブラウジングしてみるのも新たな興味ひいてはセレンディピティの機会を広げることになるかもしれません。
セレンディピティという言葉を生みだしたH・ウォールポールは、セレンディピティ発見の要素を、「偶然」「才気をもって」「探していないものを見つける」力であると提唱しています。より多くのセンサーとこだわり、そしてさまざまな変化の中で才気あふれるセンスをもって周りを見渡せば、セレンディピティが自ずと見えてくるかもしれません。
中島 純一
公益社団法人日本マーケティング協会 客員研究員
日本は予期せぬ勢いで訪れる外国訪問客で溢れかえっている。 2030年には訪日観光客 6,000万の目標は達成されそうな勢いで、オーバーツーリズムなどの言葉をもたらした。戦後駐留軍のアメリカ人が帰国して日本文化を紹介、日本に対するアメリカ人のイメージ形成に大きな影響を及ぼした。今回、大量の訪日客が日本文化、経済に対して抱いた印象が次なる時代の日本イメージ形成に大きく影響することになるのではないか。
いろいろな文化背景を持つ訪日客の日々の行動、関心、消費行動は日本のマーケターにとってまたとない異形の大マーケット、新調査対象が目の前に誕生したことにもなる。日本のマーケターはこの新市場を前に今後どのように挑戦するのか。腕の振るい方が問われる。おもてなしが日本のマーケティングの核になるような声が一時あったが、日本の人口の半分にもあたるこの観光客6,000万人を迎えて、この日本で‟日本ならでは“の何か革新的なマーケティングの視点、手法、アイデアが生み出せるのではないか。世界が注目するような思いがけない観光マーケティングの新たな取り組み、展開も期待される。
これまで日本を訪れた観光客の評価は非常に良い。バラエティに富んだ伝統的な日本の食文化、秩序ある社会行動と治安の良さ、新幹線をはじめとする公共交通機関の発展、その正確な運行を評価するものなどさまざま。友人のアメリカの大学教授が新幹線はいつもおなじマークのところに停車するとびっくり。
失われた30年などと日本の経済状態を悲観的に見る人が多々いるが、こういった観光客のコメントから見てもこの数十年間に日本が成し遂げた素晴らしい改革は多々ある。日本はどこに行ってもきれい、清潔、美しい美観だという言葉もその一つ。日本の公共トイレがきれいだというだけではない。街並み、田園の美しさ、道にごみが落ちていない、ごみ箱がない、走行している自家用車はピカピカだと。道行く人の身だしなみもこざっぱり。観光客に日本はきれいだといわれても日本人にとっては言われてみればという感じ。目の前の美しい、きれいな街は当たり前になった。
戦後の日本の風景は空き缶、コーラなど飲料系の空瓶、それに一般ごみで無残なものだった。ボランティアグループや行政機関のブルドーザが白砂清松の海岸を清掃する姿は珍しくなかった。大都会では屋外広告がこれでもかこれでもかと言われるくらいにはりめぐらされた。広告関係者は広告効果の高い地点を探しまわった。筆者も宣伝部長時代には広告代理店と広告の掲示場所を見て回った。アメリカで現地会社の経営に参加した際に真っ先に考えたのは、アメリカの高速道路の沿線に大型の看板を掲げ商品の認知度を高めることだった。
新幹線や高速道路の開発が始まった当初、沿線は屋外広告であふれ美観が損なわれると多くの人が懸念、心配したものだ。だがそうならなかった。屋外看板はどこに行ったのかと思うくらいに日本の風景は一新。都市の美観運動、環境汚染問題解消に国を挙げての取り組み、オリンピックをはじめとする国際行事、海外交流で触れ生まれたた都市や田園に対する美観意識や公共意識の向上、潜在的に存在する日本人の清潔感、美意識が根底で大きく働いたこともあろう。
かなり前に新たに登場した屋外広告規制も都市景観の美観向上に大きく作動した。改めて広告規制のガイドラインや関連条例を手にしてみると、それが旧来の屋外広告活動に大変容を求め、都市景観創造活動を活発化し、日本のマーケターに積極的に大変身させる原動力ともなった。多くの都市や町が都市景観賞や都市景観大賞を受賞。令和6年度には天童温泉街地区(山形)、汐留イタリア街地区(東京)、堀川納屋橋地区(名古屋)、中之島公園公会堂周辺地区(大阪)、大名二丁目地区(福岡)が都市景観大賞を受賞した。政府は歴史的風致維持向上計画の認定制度を制定、令和6年度までには97都市が認定されるなど日本全体を通して美化活動が展開されてきた。これからは身近な広告媒体でもあり案内標識でもある電柱の地中化だという。
デジタルメディアの登場と広告制作の革新的変容と美しい均整の取れた広告作品の登場も広告の風景を大きく変化させている。訪日観光客は携帯で動きまわる。レストランで同席した観光客が携帯を出して北京から来たと自己紹介、歩く人の目は常に携帯にあり、伝統的な広告や媒体は姿を消すしかなかったのだ。デジタル化がマーケティング活動に革命的な変革をもたらし始めていることも再認識する次第だ。
Text 大坪 檀
静岡産業大学総合研究所 特別教授
今日、私たちは「決めていたはずのない購入」を経験する。SNSを開いたら、心を揺さぶるアイテムが飛び込んでくる。私たちは調べるより先に、出会ってしまったものを購入する時代に生きている。従来の購買行動は「検索して探す」ことが中心だったが、現在は「偶然出会い、興味を持つ」ことが主流になりつつある。本書では、偶発購買を促進するための戦略として、「SEAMS」モデルを提示し、計画的に「偶然」をデザインする方法を論じている。
〇偶発購買とは何か?
購買行動には「計画購買」と「偶発購買」がある。
SNSの普及により、以前はZ世代を中心に「気づいたら買っていた」購買行動が見られていたが、年代も幅が増えてきた。企業にとっては、検索されることを前提とするマーケティングだけでなく、「見つけてもらう」設計が求められる。
〇偶発購買を生む3つの設計要素
〇若年女性のオタク化と購買行動
近年、3人に1人の若年女性が「オタク」を自称する時代になり、トレンドは各カテゴリのオタクが牽引しているといっても過言ではない。この中で、マーケティングに影響を与えるのが2つのコミュニティだ。
このため、企業が従来のように「検索してもらう」ことを前提にマーケティングを展開しても、消費者に届かないケースが増えている。むしろ、アルゴリズムを活用し、消費者が「気づいたら興味を持っていた」と思うような情報設計が求められる。本書では、SNS戦略においても「企業が一方的に情報発信するのではなく、ユーザーが自発的に発信したくなるブランドを作ること」の重要性を説いている。
本書では、様々な業界の事例に触れ、シャンプー「YOLU」の夜間美容コンセプトを例に、SNS上で自然な口コミが生まれる戦略を解説。ブランドストーリーと消費者との接点を計画的に設計することが重要であると示している。
『偶発購買デザイン』は、「偶然の出会い」をいかに戦略的に生み出すかを解説した実践的な書籍だ。単なる理論だけでなく、具体的なフレームワークや成功事例を交えており、マーケターやブランド担当者にとって必読の一冊と言える。検索しない時代の消費者心理を理解し、SNSを活用した購買戦略を考える上で、大きなヒントを与えてくれるだろう。
Recommended by 中谷 友里
株式会社Mimi Beauty 取締役