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見山 謙一郎 氏
昭和女子大学 人間社会学部 現代教養学科 教授
株式会社フィールド・デザイン・ネットワークス 代表取締役 CEO
はじめに
マーケティングホライズンのでも書かせていただきましたが、私は1990年に住友銀行(現三井住友銀行)で社会人のキャリアをスタートさせ15年半勤務した後、2005年にアーティストが設立した非営利の融資組織(ap bank)の理事を経て、自らが設立したコンサル会社の経営をしています。他方、2009年から大学や大学院の非常勤教員をしていましたが、こちらは2024年4月から昭和女子大学人間社会学部現代教養学科で専任教員になりました。コンサル会社を起業した2009年以降、コンサル業務とのパラレルワークで大学や大学院の非常勤教員を15年間つとめてきましたが、あらためてこれから先の自分自身の役割を考える中、辿り着いた結論が大学(学部)の専任教員になる、ということでした。このことは自分自身の経験を、未来を担う学生に伝えたいということではなく、私自身が学生とともに学び合い、未来をつくる当事者になりたいと考えたことに起因します。昭和時代の人間である私が、令和時代に青春を謳歌する今の若者の感性や価値観に触れることで、きっと何か面白いことが出来るはずだ、そんな妄想や好奇心にも似た気持ちを抱きながら、日々、学生と接し、今という時代を学んでいます。学生との日々の会話の中、世代ギャップを感じることが本当に数えられないほどあります。この貴重な体験を「世代ギャップ」として片付けるにはあまりにも惜しいテーマなので、その都度、深掘りしていく(ディグる)ことにしています。今回はそんな私の経験を「言葉とコミュニティ」をテーマに、いくつか紹介したいと思います。
Z世代とは、1990年代半ばから2010年代序盤に生まれた世代であり、今の学生もZ世代ということになります。野村総合研究所の用語解説によれば、「デジタルネイティブ、SNSネイティブとも呼ばれるZ世代は、タイパ(タイムパフォーマンス)重視の効率主義、強い仲間志向、仕事よりプライベート重視、多様性を重んじるなど、従来の若者以上に特徴的な価値観を持っています」とされています。しかしながら、当の本人たちは、このように一括りにカテゴライズされることに嫌悪感情を抱いています。私の3年ゼミ生に至っては、自分たちがZ世代である、という自覚すら全く持っておらず、Z世代とは今の高校生を指す言葉と考えていたようです。
自分たちをZ世代と渋々理解したうえで、自分たちの特徴を整理してもらったところ、①「好き」と「嫌い」が明確であること、②万人受けは求めない、③本音や素を受け入れる、④フィルターのある世界で生きているという、4つの特徴が挙げられました。また、世間がZ世代に持つイメージの中で、社会課題に関心があることや、口コミでの購買や、推し活に熱心という特徴には同意したものの、「実はSNSに疲れている」というイメージに対しては異を唱えました。ゼミ生曰く、「Z世代の私たちは、SNSに疲れた時期を乗り越え、それぞれが距離感を保ちながら、それぞれのコミュニティを楽しんでいる」とのことでした。また、当の本人たちの主張として、「多様性と言われている時代にZ世代と一括りにするのは如何なものか?」というものがありましたが、この意見には「新人類」と一括りで論じられた経験を持つ私も大いに賛同します。また、「他人と差別化したいが、そこまで強い個性があるわけではない」という彼女たちの意見には、等身大で生きている潔さのようなものを感じました。
昭和時代の私が「界隈」という言葉から受けることは、「緩い繋がり」のような印象で、何となく輪郭がぼやけているイメージを持っていました。3年ゼミでこの話をしたところ、「緩い繋がり」であることは一致していましたが、「界隈」の内と外では明確な線引きがされていることがわかり、輪郭や境界は、意識的にかなりはっきりさせているということを教わりました。デジタルネイティブの今の学生は、X(旧Twitter)やInstagramなどのSNSのアカウントを複数持っており、私のゼミ生のケースでは、Xは4~5アカウント、Instagramは3~5アカウントという学生が多かったです。コミュニティごと、関心のある情報ごとにSNSアカウントを使い分けているのが大きな特徴でした。自分が今、この瞬間に見たい、知りたいと思う情報に集中し、他の情報に邪魔されたくない、というのがアカウントを分けている理由のようです。また、昭和世代の私は、オールドメディアで伝えられるインスタ映えやTikTokで若者が躍っている動画などの情報から、若者は常に自身の情報を、SNSを通じて発信していると捉えがちですが、授業の中で学生がアンケートを取ったところ、情報発信2:情報受信8という比率の学生が一番多く、実は学生はSNSを情報収集のために使っている、ということが明らかになりました。ちなみに、昭和世代で多用されているFacebookは、私のゼミ生全員が使っていませんでした。基本的に実名のFacebookを中心に情報の受発信をし、XやInstagramも多くの人が1つのアカウントしか持たないような昭和の世代の私と、3年ゼミ生の「界隈」の捉え方の違いは、こうしたところから生じているのだと学びました。
リアルタイムで高度経済成長期を体験している私は、無意識に「日本は先進国である」という思い込みを持っています。私のみならず、私と同じ世代の多くの人は、「日本は先進国である」ということに疑いを持つことはないと思います。実際に内閣府では、先進国をOECD加盟国と定義し、新興国を先進国以外の国のうち、G20に参加する国、そして途上国を先進国・新興国以外の国と定義しています(2024年版「世界経済の潮流」より)。この定義によれば、日本は先進国に該当するということになります。経済成長が生活の豊かさをもたらしたという残像の中にいる昭和世代の企業人と交わる中では、決して生まれないような疑問も、学生と接する中では不思議と生まれてくるものです。高度経済成長期の中で育った私と、失われた30年の中で育った学生との間には、何らかのギャップがあるのではないかと考え、「先進国と途上国の違い」についてディスカッションをしてもらいました。
「そんなこと考えたことがなかった」という意見が飛び交う中、議論が進み、多くの学生が賛同した定義は、「選択の自由があるのが先進国で、ないのが途上国」というものでした。いかにも人間社会学部現代教養学科の学生らしい、本質を突く定義だと思いました。次に本題である「日本は先進国か、それとも途上国か」という質問を投げかけました。「選択の自由の有無」という定義をもとに考えたことから、この質問はかなり深い問いかけになりました。「何となく、日本は先進国だと思っていたが、女性の社会進出等のジェンダー問題や、ヤングケアラーの問題や相対的貧困の問題、幸福度(世界51位)などを考えると、一概に先進国とは言い切れない」という意見が大勢を占めました。
学生のディスカッションを聞いていて、インフラの整備や見た目の豊かさなどハード面では先進国と言える日本は、社会制度などソフト面では確かにまだまだ発展途上なのかも知れない、ということを感じました。英語で先進国は“Developed Countries”、途上国は“Developing Countries”であり、「途上」ということはまだまだ成長、改善の余地があるということです。課題先進国である日本は、発展途上の先進国“Developing developed country”なのかも知れない。そんな気づきから、次世代を担う学生と一緒に、未来をつくれたらいいな、と考えています。
言葉の意味は、所属するコミュニティの中に存在する無意識の価値観の中で、無意識のうちに固定化されていきます。異なるコミュニティの異なる価値観に触れたとき、もしも「あれ、何か違うな」と感じたのであれば、それは価値観の違いをディグる(深堀りする)絶好のチャンスです。言葉の使い方や意味が時代とともに変わるということは必然であり、価値観が時代とともに変化しているということなのです。無意識の固定観念を破壊した方は、ぜひ、学生との対話をお勧めします。
見山 謙一郎(みやま けんいちろう)氏
昭和女子大学 人間社会学部 現代教養学科 教授
株式会社フィールド・デザイン・ネットワークス 代表取締役 CEO
専門は経営社会学。社会課題起点でビジネスを想像し創造する “Business for Re-Designing Society”の活動を産官学金民の枠を超え、クロスボーダーで展開中。環境省、総務省、林野庁などの中央省庁の他、墨田区や川崎市など地方自治体の行政委員をつとめる。また、国際NGOメドゥサン・デュ・モンド・ジャポン(世界の医療団)理事、公益財団法人三井住友銀行国際協力財団評議員などの役職を兼務している。
私たちは日常的にさまざまな偶然に出会います。まれにある驚くような偶然から、気づかないような小さな偶然まで千差万別です。でもそれらの中には、“幸運な偶然”と呼ばれるセレンディピティに至るものもきっとあることでしょう。今回はSomething Newという視点から、「閃き」とセレンディピティについて考えてみましょう。
前回取り上げたDMNの発見とセレンディピティでは、もともとめざしていた課題(研究テーマ)とは異なる想定外の現象の発見でした。メインテーマに対して、視点を変えた本来の目的とは異なるところで偶然に発見されたものです。
セレンディピティについて、この言葉を生み出したH・ウォルポールは「偶然と才気によって探していないものを発見すること」と述べています。つまり「ある目的の中で思いもかけない偶然に出会い、聡明さをもって異なる新たな価値を発見する」という考え方です。ここで重要なことは「探していないものを」という表現です。「探していない」=「想定外」=「まったく考えてなかったこと」の偶然による発見は、ある程度予測できる想定内の発見とは比較にならないくらいにインパクトの大きいものです。想定外の事柄の発見とそれを導く“偶然”という不確実な要素の結びつきの絶妙さに、セレンディピティの特徴があります。
このような「課題となる目的とは異なるものの価値を偶然発見すること」がセレンディピティの基本形といえましょう。これらの思考の流れを見た時に、課題に向かうベクトルが途中から横道にそれることで広がりを持たせる「拡散的思考法」とみることができます。
目的に対して道草的に寄り道で出会った偶然の発見が、実はもともとの課題に対し求められていた“解”になることもありえます。レントゲン博士が課題の実験で試行錯誤する中で、ふと実験室を見回した時にたまたま目にした光る物質の発見は、課題であるX線の発見に至りました。つまり想定していなかった新たな発見が、実は本来の課題の“解”となるものであったということになります。このように偶然による異なる新たな価値の発見が、結果的には本来の課題の解決に繋がるものもあり、セレンディピティの変化形ともいえます。この思考の流れは途中で横に広がることもありますが、結果的に本来の課題に収束する合目的的という点から、収束的思考法の変化形とみることもできます。
ここまで見てきたようにセレンディピティは、大きく2つのタイプ-基本形の拡散的思考法と収束的思考法の変化形-に分けられます。ウォルポールが提唱した本来の意味でのセレンディピティは、社会学者のR・K・マートンが「科学の進歩はセレンディピティの貢献が大きい」と述べているように、基本形の拡散的思考法あるいは収束的思考法の変化形を問わず、ノーベル賞クラスの発明発見に代表される科学分野に顕著にみられます。
これらに対して日常レベルで用いる広義の意味でのセレンディピティは、本来の定義にある「探してないものを~」という部分のニュアンスが小さくなり、偶然による思いもかけない発見とその結果としての幸福感に重きが置かれています。すなわち「偶然」→「思いもかけない発見」→「幸福感に至る」となります。さらにこのような思わぬものを偶然に発見する能力、偶然がもたらす幸運を見つける力のように、いわば“セレンディピティ力”のような能力をもつ人を表す言葉としても用いられています。
この幸福感を伴う発見やそれらを見いだす能力としての意味合いは、語源のヒントとなった物語を貫く幸福に至る考え方や、次々と登場する難問を見事に解いていく聡明な主人公たちの能力に注目したものとも言えます。このことは代表的な英語辞典、日本語辞典などの“辞書(辞典)”にも反映されており、多くの場合に「~を見つけ出す能力」とか「幸運」という説明がみられます。つまり人々に広く啓蒙する“辞書(辞典)”という媒体が、セレンディピティの意味合いをより身近なものとして分かりやすく捉えているということになります。「幸運な偶然」「思わぬものを偶然発見する能力」という親しみやすくかつ夢を持てるような意味合いゆえに、一般的な意味として広がったのでしょう。
創造的思考法の閃きとの関係について考えてみましょう。代表的なワラスの4段階説の第3段階の“閃き”には、頭の中で突然閃く「発想」と外部からの刺激がトリガーとなって閃く「着想」とがあります。周りや人を見て、人の話を聞いて、何か体験をしてといったように日常の小さな偶然がきっかけで閃くという着想は、多くの場合にセレンディピティと重なります。
一般に創造的思考は課題に向かう直線的な思考法であり、その意味で着想を閃きの一つの要素(他には発想もあります)とする4段階説と、収束的思考法の変化形としてのセレンディピティとはかなり共通点も多くみられます。
何か新しいことを思いついたり、同じモノでも新鮮な見方を見つけたりと、私たちの日常には、ふとした小さな出来事や小さな偶然をきっかけに閃きを得るシーンに溢れています。それら無数にある小さな偶然の中から、思いもかけない幸運へと繋がるセレンディピティに巡り会う、見つけ出すための方策を次回は考えてみましょう。
中島 純一
公益社団法人日本マーケティング協会 客員研究員
2024年、政治の世界は政治資金疑惑で大きく揺れ動いた。政治と金、政治不信の問題は何も新しい問題ではない。ロッキード事件、リクルート事件などすぐ思い出す大事件が幾つもある。事件のたびに政治改革や信頼される政治の確立が叫ばれてきた。三木武夫元総理はことある度に倫理、倫理と叫んでいたのを思い出す。
しかしこの倫理の問題は政治の世界だけの問題ではない。ビジネスの世界でも企業トップがTVでお詫びする姿が珍しくなくなった昨今だ。大学でも同じ。不祥事がたびたび繰り返され、大学の運営に厳しい社会の厳しい目が向けられ、自己監視機能、浄化作用を求める法律が制定された。
ハーバード大学のビジネススクールに滞在したときのこと。主任クラスの教授からハーバードは倫理観の高い経営者を生み出すことに最大の関心を持っている、と分厚い教科書を手に何回もその重要性を聞かされた。組織は戦略に従うという言葉を残した経営史の学者チャンドラー教授は、アメリカでは社史の作成に企業が熱心でない理由の一つは、反トラスト法などとの関係で不都合なことが掘り起こされ問題視されることを避けたいことにある、と小生の質問にコメントしてくれた。ビジネス活動を取り巻く法規制があとからあとからと誕生するのはビジネスが社会的な規範を犯すからだ、と法学部の教授が説明していた。アメリカのビジネススクールで5cmほどもある分厚いビジネスローの教科書を使用して経営者が留意すべき法知識を叩き込まれた。反トラスト法の授業は実際の事案→ケースをベースとして行われ、熾烈なビジネス競争のもと、アメリカのビジネス界で犯される法違反の実態を数々学んだのを思い出す。
日本の産業界でも法律順守の動きが高まり、コンプライアンスという言葉が日常のビジネス用語になっている。アメリカの企業のように新しいビジネスプロジェクトの立ち上げに顧問弁護士や法務課の事前チェックを受ける仕組みを持つ企業も多くなっているようだ。法令順守やビジネス倫理を日常のものとする運動はいろいろと多角的、多面的に行われているが不祥事は後を絶たない。
1974年10月、日本広告審査機構JAROが誕生し本年創立50周年を迎えた。当時チラシや紙媒体、電波に登場する広告に対する苦情が多数寄せられ、広告主、広告代理店、媒体社、広告制作会社が中心となりJAROが立され、広告に対する消費者の苦情、疑問点にこたえるべく、広告表示を自主的に審査する活動が始まった。小生も審査委員の一人だった。当時の資料を見ると、なぜ消費者庁や消費センターが誕生するようになったか納得できるような不都合な事案が多々持ち込まれたのを思い出す。創立以来持ち込まれた広告に対する苦情や意見はこの50年で26万件余という。広告活動はマーケティングの重要な部分。いつまでたっても問題はなくならない。JAROの創立期だったと記憶しているが 広告の自主規制をテーマにインドで国際会議があり、小生も出席し意見交換の場に参加したが、どこの国でも不都合な広告の氾濫に頭を悩ませており、各国の対応状況、仕組みについて何時間も熱のこもった意見交換がおこなわれた。
日本ABC協会は1952年に設立された。新聞、雑誌、フリーペーパーなどの発行部数を公査する民間機関だが、その歴史はアメリカでの発行部数疑惑→水増し、誇大な発行部数表示の問題に遡る。アメリカの広告業界は新聞、雑誌のこの誇大発行部数の問題に悩まされABCが誕生、日本にも同様な機関が誕生したが、ABCに加入していない媒体社はいまだ多数に上るのではないか。
広告代理店の業務活動や人事管理の在り方、セクハラ、パワハラとマーケティング業界が問われる企業倫理の問題は多角的、多面的となり問題は深刻化している。情報化社会の特有の広告問題も多数発生。偽装広告やフェイクなどの新語が登場し、インターネットメディアに対する信頼度は極めて低いといわれている。カスハラなど消費者サイドが引き起こす新型のマーケティング課題も日々登場、その問題対処法、発生防止策が取りざたされている。
デジタル社会が進展する世界でマーケターがここ一段と求められるもの。それはマーケティング活動に対する社会の信頼の維持と向上、高める不断の努力、日ごろの自らの高い倫理観の涵養,維持・積極的な展開と取り組み、そして企業経営者、マーケティング関係者との倫理の連帯だ。倫理観の自覚、倫理の問題は政治の世界より深刻かも。
Text 大坪 檀
静岡産業大学総合研究所 特別教授
「優れた問題を見つけた人だけが、優れた解決策と成果を得られます。「解決型」人材は大勢いますが、「発見型」人材はごく少数で貴重です。
これは、本書からの重要なメッセージである。共感する人はとても多いのではないか。普段の業務の中で、「お客さま起点で」「優れた顧客体験を」と「解決方法」を指示されて、問題の本質にたどりつくことなく、「デジタル時代はスピードが大切、トライ&エラーでよい」となんとなく進めてしまう。もしくは、他者に解決方法だけでなく、「問題発見」までを任せることを行っていないだろうか。
本書は、表向きには明らかになっていない真の課題を「自分自身で」見つけ、本質に気づく力を育む方法を、丁寧に、真摯に伝える書である。その方法は筆者が開発した「コンセプトピラミッド」。コンセプトピラミッドでは、あるテーマに対して、思いつくものをピースとして、自ら「書き出す」ことを大切にする。書き出した内容については、ルールをもとにチェックを行い、一旦、俯瞰。その後、具体、中間、抽象でグルーピングを実施する。真の課題を見つけるために重要なことは、表層的な単語ではなく、意味に注目し「要するに」でまとめることにあるとする。パソコンやスマートフォン等で「打つ」ことが中心となる世の中で、自らが「言葉」を用いて「書き」「整理」をすることで、自然と「深く考える」ことにつながり、「問題発見」となっていく。「書く」という手段は、今の時代だからこそ重要であり、コンセプトピラミッドという手法の独自性や普遍性を示すものではないか。
筆者は、コンセプトピラミッドは、個人の生き方などを考える場合にも有効であるとする。その背景には「自分で考える」からこその腹落ち感にある。
ぜひ、充実した時間をさまざまに過ごすために、この本を読み、自ら考え、問題発見につなげていただきたい。
Recommended by 中塚 千恵
東京ガス株式会社
資本コスト–––その言葉を聞いて、あなたはどのような世界を思い浮かべるだろうか。多くの人は「財務部門の専門知識」として捉えるかもしれない。しかし、本書を手にすればわかる。それは経営の本質をつかむ鍵であり、マーケティングや事業戦略といった他部門にも直結する重要な概念なのだ。
著者の岡俊子氏は、私のウォートン・スクール時代の同級生であり、日本におけるM&A分野を切り開いた第一人者だ。卒業後、私はマーケティングの道に進み、岡氏はM&Aアドバイザーとしてキャリアを積んできたが、共に経営の本質を探究してきたという点で、思いを共有している。現在、岡氏は明治大学グローバル・ビジネス研究科の教授であるとともに、数々の上場企業の社外取締役として活躍している。そんな岡氏が手がけた本書には、経営者・経営幹部に求められる視点が実務と理論を通じて凝縮されている。
本書は、架空の企業「ミツカネ工業」を舞台に、3人の社外取締役が資本コストについて議論を深めるストーリー形式で進む。これが非常に効果的だ。会話を通じて、WACC(加重平均資本コスト)やROIC(投下資本利益率)といった一見難解な概念が、自然に理解できるように誘導してくれる。そして、その背景にある現場の課題や経営のリアリティが鮮やかに描き出されている。
特に印象深いのは、資本コストというテーマが、経営の「共通言語」として機能する可能性を示している点だ。CFO(最高財務責任者)の視点だけでなく、マーケティングや事業戦略に携わるCMO(最高マーケティング責任者)、そして全社的な意思決定を担うCEO(最高経営責任者)にとっても、資本コストを理解することが、経営の意思決定を根本から変える武器になる。
マーケティングの視点から見ても、資本コストは極めて重要だ。資本コストがわかれば、マーケティング施策のROI(投資利益率)を定量化し、その成果を経営にフィードバックすることができる。そして、これが企業全体の資本効率を向上させる原動力となる。本書は、その実践のための「設計図」と言えるだろう。
『図解&ストーリー「資本コスト」入門 第3版』は、単なる入門書ではない。財務、マーケティング、戦略という分野を超えて、経営者・経営幹部・次世代リーダーにとって必要不可欠な「共通言語」を提供する一冊だ。岡俊子氏が描くこの未来図を、多くのリーダーが共有することを願っている。
Recommended by 神田 昌典
アルマ・クリエイション株式会社 代表取締役、経営コンサルタント、作家