by 小野 龍光 氏
INTERVIEW
ベンチャー投資家であり、IT起業家としての活躍から一転、会社を辞めてオーストラリアに移住。更にはインドで得度(出家)し、何者でもない人間となった小野龍光さん。経営者当時悩まれていたこと、金融資本主義の膨張メカニズムの中で、企業が掲げるミッションとの間に生じる矛盾、どこまでいっても満たされないことを学び、あるものでやりくりするという考え方について、実際に資本主義の真ん中にいらっしゃった経験、それらをすべて捨て去った現在の体験に基づいてたくさんの示唆にあふれるお話を伺いました。
龍光として生まれ変わり、人生をやり直している最中
─── まず、龍光さんご自身についてご紹介いただけますでしょうか。
龍光 得度前のことを前世という言い方で呼ばせていただいております。死んだ人間という考え方ですので特に自分について語ることはありません。一応1974年に生まれました。2022年の10月に、縁があってインドにて佐々井秀嶺上人という方の下で得度しました。以上を持ちまして私のプロフィールです。
─── 一度死んだ人間とおっしゃっていますが、それはどのように理解すればよろしいでしょうか。
龍光 あくまでも自分の中での脳内設定と捉えていただければと思います。得度して龍光という法の名前をいただきました。これは僧の名前ともいいますが、自分は僧侶ではないため法の名前という、新しいお名前をいただく。これは戒名になるわけです。今まで生きてきたなにがしという人間が、得度をもってその生を終えて、龍光として生まれ変わり、人生をやり直しているというのが自分の中の考え方です。ということで過去に死んだ人間というような表現をさせていただいております。
─── 得度されて新しい人間になったということですけれども、今の人生の中でのミッション、やりたいことは、今どのようにお考えでしょう。
龍光 ただ人様の役に立つ生き方をする、以上、という考え方でしょうかね。
─── 役の立ち方には様々あると思います。領域や方向性はありますでしょうか。
龍光 特にはございません。縁があって自分のもとに何かしらのご相談にいらっしゃる方は、基本的にすべて私のほうでお力になれるかどうかはわかりませんけれども、真摯に向かい合わせていただく。時にはビジネスの中での悩みの方、時には病気の方、高齢の方、若い方、恋愛のことやお金のことなど本当にさまざまではありますけれども、頼っていただいた方に関してはできる限り努力をいたします。
一方で、何か規模を求めるという考えは持っておりません。というのは、あくまでも縁があって頼っていただいたということなので、こちらからどうですか、仏教、いいですよといったことは一切するつもりはありません。それぞれの価値観があるわけですから。ですので、そういった観点では特に規模を求めたという考え方はしておりません。
インドで得度した自分のストーリーから
勇気をもらったという声を頂き驚いた
─── 以前に文春オンラインで記事を拝見して、得度に至るストーリーを非常におもしろく読ませていただきました。記事への反響というのはいかがでしたでしょうか。
龍光 実は、それまでメディアからの取材は基本お断りをしておりました。自分自身が苦しんで、悩んだ末に生き方を改めようとして、ただ禿げ頭になってインドから帰ってきたという、それだけのことでしたので。もちろんメディアから見ておもしろみがあるというのは理解しておりますが、何か偉そうに語れる立場でもない。ただただ禿げて、丸刈りになって見た目が変わって帰ってきただけですと。
ですので、取材はすべてお断りしていたのですが、自分がインドで佐々井秀嶺上人に出会うきっかけをいただいた方がいらっしゃったので、ご連絡してお礼がてらお会いしたときに、自分のことを記事にしたいとおっしゃっていただいて、それが恩返しになるのであればということで引き受けさせていただきました。
記事が出た後に、いろいろと捨てて禿げ頭になりましたというだけの自分のストーリーに対して、救われたというコメントですとか、非常に勇気をいただきましたという声を少なからずいただいたというのが自分にとっては大きな驚きになりました。
自分が自分自身の苦しみからある種逃れるためのひとつの生き方としてやったことが、ほかの方々にとってなぜか救いになるというのは新たな発見でした。
それから、メディアに出させていただくことが人様のお役に立つ可能性があるということであれば、縁をいただいたものはお断りせずにお受けさせていただくと考え方を変えた次第です。
経営者当時に悩んでいたこと
─── 投資家、経営者として活動されたときに苦しんで、悩まれたことがあったということですが、具体的にどのようなことで当時悩まれていたのでしょうか。
龍光 ふたつの側面がありまして、まずひとつは内面に関すること。当然、ビジネスパーソンとしてはインパクトのある成果を求めます。つまり規模を求めるということです。経営者であれば誰しも同じような傾向があると思いますが、自分もそうでした。ただこの規模というものは、どこまで行っても満足するものではないわけです。
例えば、僕は前世(得度以前)において非常にビジネスで成功していたのですねという評価をいただくことがありますが、自分の中で成功したという実感はまったくありませんでした。なぜならば、上を見れば切りがないですし、一方で、どこまで行っても満たされることがない。しかし、膨らませることが正しいとされ、そこで評価される世界観に身を置いている。どこまで行っても満たされることがないということがわかっていながら、それを追い求めるという苦しさ、これが内面の苦しみです。
もうひとつ外面については、一般論としてベンチャーキャピタルという業界はあえて言えば錬金術のようなものです。期待値を膨らませて株価をつり上げるという言い方が正しいかわかりませんが、高く売ることによって投資家に対してリターンを出していくというビジネスです。その中で本質的な企業価値とは必ずしも関係のないところで株価が形成されていく。そのゲームに参加すればするほど、極端な話ですが、世の中の格差の助長に貢献するということにもつながる。
つまり、ベンチャーキャピタルという業態は大きなお金を持っている人に対して、より大きなリターンを出すための活動とも言えるわけです。それが、極端に言えば、経済格差、教育格差といった分断にもつながっていく。もっともっとと個人が消費を求めていくことに目をつけて、企業はさまざまな欲を喚起するモノやサービスをどんどんつくっていくわけですけれども、ぐるぐる回せば回すほど、個々人の苦しみは決して解消されず、むしろ僕と同じように苦しむ人が増える可能性もある。これに加えて、環境の破壊です。企業として膨張すればするほど、エネルギーはどんどん消費され、地球は破壊されていく。よりよき未来のための活動になっていないのではないかという悩みです。
このふたつの悩みを抱えながら、自分がやっているビジネスは正しいのだと信じ込ませてきたのですが、売上げ、従業員数など、規模が大きくなればなるほど、自分の中の矛盾が大きく膨らんで、自分の心が耐えられなくなったというのが、得度とはまったく関係なく会社を辞めようという判断をした背景です。
─── 資本主義の成長のメカニズムの矛盾に対して苦しまれたのには、何か原体験があったのでしょうか。
龍光 内なるものに関しては、シンプルに数字を求めて、この規模になれば自分はひとかどの経営者として認められるのではないかと追いかけていき、そこに到達すると更に上へ行かないと、ということが際限なく続くという実感。
外なるものに関しては、さまざまなメディアで、地球の環境がどうなっているのかというのが可視化されるようになってきたなか、自分としてはできる限り次なる人材、次の自然を残していきたいと考えている一方で、分断や紛争を増やすもとをつくっているかもしれない、環境を悪くする方向の活動をしているかもしれない。自分の承認欲求として目指すものが、自分の良心として許せなかったということです。
得度して気づいたこと
─ 良心と承認欲とのせめぎ合いで苦しまれたことについて、前世を捨てられた立場となったことでの気づきというのはありましたでしょうか。
龍光 そうですね。少しだけ補足させていただくと、得度してリセットしたわけではなくて、まず、去年の8月に仕事も辞めて、今はオーストラリアに移住しています。仕事を辞めて、自然にあふれる環境に身を置く。この時点でリセットしているわけです。ただ、その後どういう生き方をするか。当然そのときは得度なんて1ミリも考えていませんでした。
たまたまご縁があって得度、仏門という生き方を選んで肩書やお金、いろいろなものを捨てて見えてきたことは、自分がとらわれていたものはこんなものだったのかということです。捨てたからこそ、とらわれていたものの正体が見えてくる。
肩書であるとか承認されるということは何ら不確かなものです。言わばおでこにポストイットをつけているようなもので、あなたは何とか取締役ですといったことは、はがれたところで何ら意味のないものです。そういったものにこだわってしまっていた自分がいた。数字というものを求めれば求めるほど苦しくなるということは、仏教のいろはの教えなのです。それは頭でわかっていたつもりになっていたけれども、実際に体験することで初めて理解したということです。
─── 肩書や承認欲求と本来的な良心とのはざまでの悩みは解消されたのでしょうか。
龍光 そうですね。数字という、求めても満たされきらないものを求め続けても意味がないということを学んだことで、まずそこで苦しむことがなくなりました。と同時に、これは発見だったのですが、非常に穏やかな、慌てない生き方に変わりました。
会社を辞めて無職にはなっていたのですが、どこかで何かを求め続けなければいけないと感じていた自分がいました。次に何の仕事をして、世の中の役に立っていくのかですとか、時間というものには縛られていました。ですが、お金を捨てたことによって、いつまでにどのくらい増やさなくてはいけないという考えが消え去ったと同時に、時間に対しての囚われもなくなりました。
人間は必ず死ぬものであり、いつ死ぬかもわからない。ただただ今の一瞬に対して真摯に自分に向き合って努力を続けていけばいいという考え方が備わってからは、何かに対して慌てるという概念が消えていきました。時間に対してもすごくおだやかな時間が流れるような生き方に変わりました。
─── いろいろなものに囚われてきたということへの気づきとありますが、日本の常識で囚われすぎなのではないかという気づきはありましたか。
龍光 日本人だからというのは、自分が日本人の時点でバイアスがかかっているので、評価が難しいのですが、特に感じたのは、貨幣の量という言い方をしますが、貨幣の量という数字、また社会に出る前であると偏差値という数字、おそらく多くの日本人はこのふたつの物差しにかなり縛られて、そこを頼りにしているように思います。しかし、数字ですのでどこまで行っても満たされないですし、その数字を出すのに得意ではない才能を持っている人たちにとっては生きづらさ、苦しみになる環境なのではないかと感じます。
例えばインドに行くと、日本から見ると経済的には決して豊かとは言えない暮らしをしている方、物もそんなに持っていない、お金もおそらく持っていないであろうという方に出会うことがありますが、とても生き生きとして幸せそうに生きている方がたくさんいらっしゃいます。お金はないかもしれないけれども、だからといってそこに対して囚われないので、苦しみにはなっていない生き生きと暮らせているのです。もちろん明日以降の自分たちの食事がどうなるかわからないというリスクは持っているわけですけれども、その不安が必ずしも苦しみにはなっていない。
こういった人たちを見ると、日本においては、大半が貨幣の量(たとえば売上げ、給料、株価)もしくは偏差値といった、あまりにも少ない評価軸でみんな同じく測ろうとする傾向はあるかもしれないなというのは感じました。
目に見えないものを可視化する難しさ
─── 今回SBNRという概念に着目しています。宗教的とまではいかなくとも、精神的なものを大事にする生き方ということなのですが、このキーワードについてどうお感じになりますか。
龍光 ビジネスの業界は、SDGsしかり、次々にラベルを変えて新しいキーワードを作り出すのが好きだなというのが本音の第一印象です。こうやって新しいビジネスのタネというのを生んでいく。それがまたどんどん拡大につなげるべく生んでいかれるのだなというのは正直冷めた目で見ています。
─── 企業経営において目に見えない価値を目に見える資産に転換することについてどういうふうにお感じになりますか。
龍光 感覚的な話を数字化するということ、もしくは言語化をするというのは、かなり困難だと思います。数字化することは不可能ではないかもしれません。例えば、自分もかつていた会社においては、行動指針というものに色濃く自分の価値観を反映させていて、それがどれだけ浸透しているかというのを、アンケートをとることで数字にする、また社内での満足度などを様々な形で数字化することはできます。しかし結局それは数字でしか表されないもので、コンテクストが抜け落ちてしまう。
一方で、バランスシートみたいな話をすると、結局それは資本主義の大きな力学の中では数字を膨らませる拡大圧から逃れるのは困難なのです。資産化するということを考えた瞬間に、どうやったら数字をより大きくできるかという圧に巻き込まれる。そうなると道徳性、信念とか、モラルとは相反する結果になってしまう可能性が強いのではと思っています。僕は、そこは切り離したほうがいいのではないかとさえ思っています。
─── 感覚的なことは感覚的なもののまま保持したほうがいいのではないかということでしょうか。
龍光 そうですね。もちろん、例えば会社であれば行動指針、バリューという形で言語化はしていくという作業は必要ですし、やろうと思えば数字化することはできます。そういうことが悪いことだとは言わないですが、やはりそこには限界があるであろうというのが自分の考え方ですね。数字に頼りすぎるというのは、結果的に数字だけを見る世界にとらわれてしまう可能性があるのではないかと思います。
─── 逆に本質から遠ざけてしまうリスクもあるかもしれないということですかね。
龍光 これは自分自身の苦しみの体験でもありますし、ほかの経営者と話をしていても感じることですが、ミッションというものが美しく聞こえるわけです。でも、結局売上げ、利益、時価総額、大体この辺りと必ず矛盾が生じるわけです。きれいに両方がすべて満たされるというケースは、僕は残念ながら見たことはないです。数字を拡大させる、そのほうが良しという価値観が入った瞬間に、ミッションはどこかで欺瞞になっているケースがほとんどではないかなと思います。より良い世界をつくるというのは簡単ですけれども、数字化するためにはどこかで搾取も行われるわけですし、格差もあるわけです。良き世界というのは、あなたの目線でのより良き世界で、苦しみをもたらされている人もいるのではないかという話も生まれるかなと思います。
この数十年間は、数字がひとり歩きして
勝手に膨らんでしまっている状況にある
─ 資本主義の成長圧、拡大圧をどう捉えるかという視点があれば教えていただけないでしょうか。
龍光 ホモサピエンスの歴史まで引き伸ばしたときに、おそらく我々の生物種の仕事というもののほとんどは、いわゆる衣食住に関わることだったのではないかと思います。なぜならば、1万年、1万5千年くらい前までは、農耕というのがそこまで盛んではなく、狩猟民族でありました。そうすると、食べる物、自分たちの衣服、住むところという衣食住は集団の中でほぼほぼ賄えていたというのが実態だったのではないでしょうか。
貨幣というものが3000年前ぐらいから発達して、いわゆる分業ができるようになった。衣食住を必ずしも自分たち、自分のコミュニティで全部をやらなくても、ひたすら壺を作るとか、ひたすら釣り竿を作るということも可能になった。これはあらゆる幅広い才能で生きられるようになったという意味で素晴らしい発明だったと思います。
それが、貨幣というものが貨幣を生むという、貨幣が売買の対象として一気に膨らみ始めたのはここ50年くらい、金本位制が崩れた辺りなのではないかと思います。本来貨幣というのは衣食住において必要なもの、もしくは自分が足りていないものを流通させるための潤滑油としてあったのが、貨幣で貨幣を生むという仕組みを許してしまうと、お金があったほうが有利だというゲームになってしまうので、どんどん膨らんでしまうのは自明の理だと思います。
大量に生まれていくお金、増えていくお金の中で、企業はどういう状況であったとしても売上げは1%でも伸ばさないといけないという圧にさいなまれる。数字というものがひとり歩きして勝手に膨らんでしまっている状況がより顕著になったのは、この数十年間なのではないかなと見ております。
ですので、もちろん資本主義と一言で括ることはできなくて、変化は常にしているわけなのですが、特にこの数十年の金融資本主義というか、自由経済主義では、お金がお金をどんどん生んでいく、しかも自由に任せる状況になっている。そうすると、人間の欲が際限なく働いていくのは仕方がなき人間の性なので、ますます全体がお金をどんどん刷って、どんどん流通させて、その中で数字を伸ばしていくということを衣食住関係なく消費を促すというような世界観につながっている可能性はあるのではないかなと思います。
─── 企業経営をされると、短期的成長圧にさらされやすく、どうしても短期的成果というのが要求されやすくなっているのが現在だと思います。その中で長期志向を持つことの重要性については何かお考えはありますか。
龍光 今また紛争が増えてしまっていますし、温暖化というのはもう皆さんも体感で感じていると思います。また洪水の数も増えて、確かに地球というのが少しおかしくなっている。もちろんこれが経済活動によるものなのか、人口が増えすぎなのか、単に地球のサイクルなのか、まだわからないところはあるものの、今までと同じように我々が欲を燃やし続けると、結果、自分自身、もしくは自分の子孫に対してもネガティブなことになっていくのではないかという考え方は広がってきていると思います。そうすると、一企業だけでなく、個人、国家も含めて、数世代先の自然環境を長期にわたってどう残していくのかというのは大変重要なことだと思います。一方で企業として見たときには、特に上場企業の場合、見知らぬ第三者という立場の投資家からの圧も生まれてくるため、長期目線を貫くというのはなかなか難しい。正直に言えば、オーナーシップを完全にコントロールできる環境で、強い信念をオーナーもしくは経営者が持ち続ける形ではない限り、更にはそこに参加する従業員もそこに賛同した価値観を持たない限りは、簡単ではないと思います。
どこまで行っても満たされないことを学び、
あるものでやりくりする発想は、
小さき処方せんのひとつになるかもしれない
─── 今はマルチステークホルダー経営などとも言われ、社会全体をステークホルダーとして捉える上に、将来世代もステークホルダーの一員と捉える考え方が提唱されています。経営の実際でもこうした考え方が有効性を持つのでしょうか。
龍光 人間というものは自分の人生しか生きることができないわけです。もちろん、理想論としては二世代先、三世代先を考えていきたいというのは、良心がある限りありかもしれません。とはいえ、自分や自分の家族、自分の会社や国がなるべく物質的に豊かでありたい、熱帯地方の国であれば暑くないようにもありたいというのは人情だと思います。そこのバランスをどう取るか、難しさは正直あります。
必ずしも宗教がそれを救うとは思ってはいません。仏教以外にも素晴らしい教えはあると思います。しかし、「足を知る」ではないですが、どこまでいっても満たされないということをもう少し学びつつ、あるものでやりくりしていくという発想が広まるのは、小さき処方せんのひとつにはなるかもしれないなとは思っています。
自分は今、物を捨て、お金を捨てた生活をしています。これは小さき社会実験のショーケースになるかもしれないと思ってやっています。僕自身がお金を含めて様々なものを捨てても、実に満たされた体験ができていますので、こういったことが広く普及することを目指しているわけではないのですが、興味がある人に話をさせていただいて、こういう考え方、生き方もあるかもしれないと思っていただけるような取り組みを試しています。
自らの小さき社会実験
─── よろしければ、龍光さんの「小さき社会実験」について、どんなふうにされているのか、もう少し詳しく教えていただけますか。
龍光 まず、物という意味では本当に徹底して捨てています。この作務衣と、羽織るものしか持っていません。パンツも3〜4枚しかないです。むしろ服の選択の迷いが全くなくなると、探す手間もなくなります。非常に手軽、身軽で、世界中どこでもカバン一つで行きます。
お金も上限を設けて、それ以上貯まったら他人に流すというようにしています。制限を設け、かつ、自分にはなるべくお金を使わず、できるだけ他人様に使わせていただく。そうするとどうなるかというと、例えば人様からご飯をもらわなければ腹をすかせて1日、2日過ごすこともありますし、宿が確保できなければ野宿、公園で寝ることもあります。当然、野宿したときは、夏であれば暑いですし、蚊にも刺されます。先日、四国のお遍路を歩いていて、36度、37度の中、コンビニですとか自販機にも立ち寄らないため水もなく、のどがからからになったりすることがあります。そうすると、路上でたまたま、おばあさまからいただくイチジクが、涙が出るほどありがたかったりするわけです。
普段生活をしていると、それほど裕福ではないとしても、コンビニに行きお金を払えばご飯が買える。でもその裏側には、誰かが食物を育ててくれて、それをパッケージしてくれた人がいて、運ぶ人がいる。こうした他人の協力、つまりお世話なしに飯ひとつ自分では賄うことが難しいという当たり前の現実を忘れて生きているというのが現代だと思います。
それは豊かになってありがたいことかもしれないのですが、今度はどうなるかというと、人はどんどん傲慢になっていきます。期待と違うサービスであれば、それに対してクレームを入れる、少しでも商品に対して満足しないことがあると、それもクレームを入れる。しかし、商品もサービスも誰かがやってくれているわけです。そういった事実にすら目をつむり、自由というものをはき違えて自分の権利を振りかざす傾向が強くなってきている。なので、お金がないとか、寝る場所がないとかという不足した状況をあえて持つことによって、ご飯や衣服、住環境も含めて身の回りにあふれたものが決して当たり前ではないということを体感とともに正しく学べる。そうすると、日々の些細なことに対してものすごく感謝にあふれるのです。クーラーがあるだけでもすごくありがたいですし、食べ物ももちろんそうですし、衣服ですらそうですし、人の小さな行動に対してもありがとうと思える。
過去を振り返りますと、お金に多少余裕ができて、世間的に見て多少注目を受けるような肩書になると、自分が本当に傲慢になることがありました。衣食住など身の回りにあるものに感謝の気持ちも持たなければ、クレームを言うこともありました。ですので、当たり前に勘違いしてしまうといったことは誰にでも起き得ると思っています。
日本は今、エネルギー自給率が10%レベルと第2次世界大戦直前くらいまで下がって、極めて危険な状況だと思っています。これで少しでも紛争に巻き込まれると、夏はクーラーをつけられない、冬は暖房をつけられないということが起き得ると思います。ですので、今あることが当たり前ではないということをちゃんと正しく理解する、それがあって初めてさまざまなことに対して感謝が生まれるというのが今実感できている状況でしょうか。
─── ビジネスパーソンに対してのメッセージはありますでしょうか。
龍光 ある種、資本市場から逃げてこういう姿になっている人間ですので、皆さまに何か偉そうなことを申し上げられる立場にはないというのが大前提になります。
一方で、もし仮に数字の成長、成長という世界観に少し違和感がある、または、少し苦しく感じている人がいるとしたら、数字の成長というものが必ずしも絶対的な解決策ではなく、絶対的な正義でもない。違う可能性を自分に問い聞かせてみる機会はあってもよいのかもしれないなと思います。
会社、特にスタートアップの世界は、世の中により良きものをつくっていくということがモチベーションで、おそらく皆さん目指していることが多いと思います。しかし急速に何かを広げていくこと、これに対してはインパクトという言葉がよく使われますが、インパクトは、一定の人に対してはネガティブなインパクトももたらす。一気に何かを新しく広めようとすると、結局摩擦も増えるわけです。違う価値観の人に対しては、違う価値観を急速に求められるという形にもなるわけです。そこの現実をきちんと理解しておくのが大事ではないかと思っています。極端な話、ある種譲り合わない価値観の押しつけ合いであるわけです。どちらが正しい、正しくないという議論はさておき、それが押しつけ合いになると分断が生まれて、人は場合によっては争い、紛争にもつながるという事実があるわけです。
ですので、特に新しいサービスをやっていこうとされている方は、あなた目線では素晴らしいものかもしれないが、そうではない人もいるかもしれない時に、それを押し出していくという行為に対して、果たしてそれは良きことなのか。それは少し冷静に自分を見つめてみるという機会があってもいいのかもしれない。これはあくまでも何か違和感を持ったり、苦しんだりしている方に対しての話ではあります。
─── 先日、龍光さんが「おだやかでおもしろき一日になりますように」とおっしゃっていただいていることに興味を持ちました。「おだやか」だけでなく「おもしろき」と書いている意図は何かありますか。
龍光 今僕が話したようなお話、かつ仏門の教えは、ともすると欲を捨てなさいというのが前面に聞こえすぎる傾向があると思っています。欲から離れる。確かに欲から離れると苦しみにくくなるというのはそのとおりだとは思いますが、一方で、実際にブッダもそう言っているという理解ですが、努力を続けるということの重要性も謳っていまして、欲から離れることイコール何も目指さなくていいということと勘違いをされることがあると思っています。これでは自分の人生を生きることにおいて個人の成長にもならないですし、かつ、あまり楽しくないと思います。
いろいろと難しいことがありながらも、なるべくポジティブに捉えて、それに対して努力を続けて、人様に良きことをするということだけではなくて、自分も楽しき、おもしろきと感じる時間を作っていく。こんな生き方を自分としてはしたいなと思っています。
ですので、「おだやか」だけですと、ただただ欲から離れて仙人のように俗世から離れて暮らすように聞こえてしまうので、おだやかさを持ちながら、自身の内面を磨き、自分の成長を考えながら、おもしろく生きていくことも可能ではないかというのが自分の考え方です。こうした理由で、「おもしろき」という言葉をあえてつけさせていただいております。
─── 本日は貴重なお話をどうもありがとうございました
(Interviewer:帆刈 吾郎 本誌編集委員)
小野 龍光(おの りゅうこう)
1974年札幌生まれ、2022年インドにて佐々井秀嶺上人のもと得度。
《編集部追記》
東京大学大学院の生物科学修士課程修了。 ベンチャーキャピタル「インフィニティ・ベンチャーズ」を創業、また地元密着型掲示板「ジモティー」や共同購入型クーポンサイト「グルーポン」立上げ、17 Media Japan代表取締役等を経て、2022年10月旅行で訪れたインド・ナグプールにて得度。
*ご本人の要望により、お顔ならびに肩書は無しとさせていただいております。