第18回(最終回)
 おもてなしの真髄 

さまざまな困難に遭遇したとき、人は原理原則に立ち戻ることで正解に近づくことができます。または、先人の言葉を参考にすることで事態を打開できることがあります。そこで私がこれまで先輩に教わり、あるいは体験したり、書籍から学んだことをお伝えさせていただきたいと思います。

おもてなしの真髄

 日本固有の文化である「おもてなし」。オリンピック招致の際も使われ、流行語にもなりました。ところが、おもてなしとは一体どのようなものか、きちんと答えられる人は少ないのではないでしょうか。そこで、宗教学者の山折哲雄さんの著書やお話、そして井伊直弼の著書「茶湯一会集」(ちゃのゆいちえしゅう)から、私なりに改めておもてなしとは何か考えてみました。
 おもてなしということを考えるとき、山折哲雄さんが紹介している「出迎え三歩、見送り七歩」という言葉を思い起こします。この心こそ、おもてなしの神髄だと私は思うのです。この言葉は、お客様が来訪される際には、わざわざ玄関まで赴いて出迎え、そしてお帰りになる際に、今度はお客様の背中が見えなくなるまで見送る、という意味です。玄関まで出迎えるのには、入念な準備が必要です。万全な準備ができた上で、はじめてお客様を招き入れることができます。また、お見送りの際によく見るのが、お客様が車などで発進するやいなや、さっと玄関から引き上げたり、おしゃべりを始めたりする光景です。お客様が最後の挨拶をしようと、後ろを振り返ったときにどう思うかは明らかでしょう。まさにそれまでの接待が台無しになってしまいます。お隣の韓国では、きちんと見送られるために三度振り返りなさい、といわれているそうです。
 「出迎え三歩」と聞いて思い出す印象的なエピソードがあります。群馬県の高崎に住むとある先輩のご自宅へ、車で挨拶に伺ったときのことです。その日は高速道路が大渋滞し、約束の時刻に間に合いそうもありません。途中で遅れる旨を連絡したのですが、結局、大幅に遅れてしまいました。私はご自宅に着くや否や先輩に謝罪したのですが、逆にいただいたのが、「待っているほうは楽なんだよ。でも待たせているほうは大変だ。狭い車の中でさぞかしイライラしただろう」という労いの言葉でした。その言葉に私はスッと救われた気持ちになったのです。相手の気持ちを忖度しながら、待っていらっしゃったのです。これもおもてなしの心。こういうゆとりのある人間になりたいですね。
 お客様を見送った後は、「果たして満足していただけただろうか」と一人静かに思いを巡らせます。茶道でいう「余情残心」です。さらにいうと、客人のことを静かに思い、茶を点てる「独坐独服」。これで、おもてなしが完結するのです。お会いするのは最初で最後かもしれないという「一期一会」の精神で常に相対することが、おもてなしに繋がるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ大切なのが挨拶、とりわけ目礼です。かくいう私も、学生時代は目礼をすることがなく、とても生意気に見えていた時期があったようです。自分が知らなくても、相手は自分のことを知っているケースが往々にしてあります。その場合は、軽く目礼をするとよいでしょう。何も言葉を交わす必要はありません。会釈をするだけで相手には悪い印象を与えませんし、端から見てもスマートです。
 こう考えると、余情残心や独坐独服、目礼など、おもてなしを突き詰めれば「余韻を残す」ことがとても大事だと分かります。余韻を残すことは「人生の間」であり、これぞ人生の極意でもあると思います。
 先日、京都相国寺の有馬頼底大師より、「一華開」という額をいただきました。「一華開」は、「一華開五葉」(いっかごようにひらく)で、その対句に「結果自然成」(けっかじねんになる)とあります。これは、禅宗の初祖、菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)が、弟子の慧可(えか)に伝えた伝法偈(でんぽうげ・真実の教えを伝えるための韻文で述べたことば)の中の一句と伝えられています。意味は、「一輪の華が五弁の花びらを開き咲く。この花は、生まれたときから自分の心の奥深いところに咲いている花。自分自身が心の中を深く訪ねて、自分の力でその意味を体得する。その行は、あなたの心に美しさを与え、そしてあなたの人生を限りなく豊かにする。」ということのようです。人はそれぞれ、いろいろな立場がありますけれども、その前に一個の独立した人間であれ、ひとりの人間であれ、ということが大事だと思います。たまには、一度立ち止まり、自分というひとりを、深く静かに思う時間を持ちましょう。そして、自分を思うということは、相手のことを思うことです。これ即ち、おもてなしの極意。そして、人間の極意なりというのが、ただ今、現在の私のこころです。

公益社団法人 日本マーケティング協会
会長 藤重貞慶