Text 米良 彰子氏
特定非営利活動法人 世界の医療団 日本 事務局長
「看護はひとつの芸術(an art)であり、それは実際的かつ科学的な、系統だった訓練を必要とする芸術である」
これは近代看護の創始者、フローレンス・ナイチンゲールの言葉です。この「看護はひとつのアート」という言葉は国際協力NGOである世界の医療団にも通じます。世界の医療団の歴史は1979年、ベトナムの共産党政権を逃れて海をさまようボートピープルへの医療支援を行うため、フランス人の医師ベルナール・クシュネルが彼らの現状を世界に伝える「光の島号」プロジェクトを実施したことから始まりました。15人の医師やジャーナリストらによって、公海で起きたこの現実が国際社会に知られることとなり、溺死の危機に瀕していた数多くの避難民が救出されました。これを機に1980年、ベルナールと彼に賛同する医療者らがフランス・パリにて「Médecins du Monde」(メドゥサン・デュ・モンド、世界の医療団)を設立しました。以後、世界各地で紛争や自然災害が起きると現地に入り、現地の医療体制が元に戻り機能するように支援活動を長期的にわたって続けています。数多くあるNGOの中でも国内と海外両方での事業展開、そして緊急人道支援と現地に根差した長期開発支援のバランスを持っているのが世界の医療団です。世界の医療団は現在74か国で330の保健医療のプログラムを展開しています。国籍、人種、民族、思想、宗教などのあらゆる壁を越えて、地域社会に根差した医療サービスを通じ「医療」から疎外された人々を支援し、権利回復のために社会へ働きかけています。同時に必要な医療にアクセスできない原因や、健康への権利を侵害するもの、その現状について当事者含む関係者が「証言」し、世界で起きていることを一人でも多くの方に知っていただくとともに、政策提言につなげる活動を行っています。
アートであり科学でもある国際協力の現場
医療施設での不愉快な経験など過去のトラウマや、経済的理由から医療につながっていない人々を医療につなげていくために、私たちは各現場に合った事業を組み、その土地で最も受け入れやすいメッセージや手法は何か?ということを突き詰めていきます。メッセージが伝わると行動変容が起きやすくなります。具体例として、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプで導入している「健康エクササイズ」の事例をご紹介します。ここでは非感染性疾患(Non-communicable diseases:NCDs)で苦しむ人々が多くいます。NCDsとは、循環器疾患、がん、慢性呼吸器疾患、糖尿病などの「感染性ではない」疾患に対する総称で、このNCDsにより世界では毎年4,100万人が亡くなっており、それは世界全体の死亡者数の71%に相当します。
https://www.who.int/en/news-room/fact-sheets/detail/noncommunicable-diseases
過密状態にある難民キャンプの限られたスペースでは、運動の機会が少なく、食事も栄養が偏っており健康に関する情報も限られています。すぐに痛みなどの自覚症状が出ない疾患に関して、どのように予防をするか。考案したのがナマズエクササイズです(ナマズとはお祈りの名前です。魚ではありません)。私たちは健康を基本的な人権ととらえ、その実現のために、住民自身が参加し、決定権を持つことを大事にしています。そこで、ムスリムの方にとって受け入れやすい、いつものお祈りの習慣に従ったエクササイズを考案しました。動き自体はお祈りと変わらないのですが、頭の位置が下を向くところを上を向くようにするなどヨガのイメージで効果的なポージングにより、普段のお祈りでは意識していなかった体幹や筋肉・関節の伸びを意識することでより運動効率が上がる、という仕組みです。やはりお祈りの延長線上にあるからか実施率はほぼ100%。この体操は高齢者に対して2018年に現地の職員によって考案されたのですが、実際、立ちポーズが難しい高齢者もいて、そういう方のために座ってできるエクササイズを考案するなどバージョンアップをしています。
もう一つの事例はラオスの山岳地帯からです。コロナ禍で手洗い、マスク、ソーシャルディスタンスの必要性が世界的に発信されたこの2年間でしたが、情報から取り残されがちで識字率も低い山岳地域では文字情報では伝わりません。そこで動画を使ってメッセージを広げることにしました。
ここでも私たちが着目したのは現地の人々にとって「いかにメッセージが理解されやすいか」でした。そこで、フォロワー数1万4,000人を誇る地元TikTokのインフルエンサーの高校性3人組「Brothers Like to Enjoy (楽しむことが好きな仲間たち)」とタッグを組みました。若者ならではの視点で事業地の見どころを撮影に使ったり、普段の自分たちの生活を切り取ってストーリーを作ってもらうことにより、同世代にも共感してもらえるコロナ予防啓発動画ができました。その動画は現在までに10万近くの人が視聴しました。メッセージの重要性がさまざまなところで取り上げられ、高校での上映も実現した結果です。ナイチンゲールの言葉「看護は実際的かつ科学的な、系統だった訓練を必要とする芸術」にあるように、現場でもエビデンスに基づく根拠が必要です。しかし、その根拠を一番よく知っているのは現地の住民。ロヒンギャ難民キャンプでの体操やラオスでのメッセージを伝えるのに、誰が、そして何が有用かは現地の住民からの提案なくして作れませんでした。活動が継続され、長期的に健康問題に取り組むためには、外部からアイデアや手法を持ち込むのでなく、現地の人々の知恵や工夫、創造力などの資源を活用することが重要です。
選択肢があるだけでなく、それを活かすことのできる潜在能力(Capability ケイパビリティ)が必要
誰もが生まれながらにして「権利」を持っていますが、実際のところ実行できる力がなければ行使できないことがたくさんあります。インドの哲学者であり経済学者であるアマルティア・センは権利を実現できるだけの潜在能力が必要、という考えでした。例えば「新型コロナ予防にワクチンが効く」と言われても人によってはどこに行けばいいのかもわからないし、ワクチンが無料ということも知らなかったら「受診料がかかるので行かない」ということになってしまう。実際このようなことが国内外で起きていたのを私たちは目の当たりにし、その機会を活用することができない人が大勢いるということを認識しました。情報をわかりやすく図式化したり、音声でその情報を流すなどしてそのギャップを埋めてきました。
また、当事者のみならず、社会の仕組みを変えていくために行政にも働きかけていきます。行政が見えていないことを見える化する、そして当事者の声が行政に届くようにする、それらがNGOの役割です。そこにいる当事者も千差万別、また行政といってもさまざまな課題を抱えているため、一言でくくることはできません。この個別のレベルで何が必要か、という理解なくして、対応策は考えられません。一人ひとりが違う中で必要で最適な「何か」を生み出すことがアートとサイエンスが交わる国際協力と言えると思います。
当事者の声を届ける
活動を通じ、最も弱い立場にある人々の医療へのアクセスを難しくしている原因や、人権が侵害されている状況が浮かび上がってきます。その現状を多くの人に伝えることが世界の医療団が行っている証言活動です。人権侵害、特に医療アクセスが困難であり多くの命が危険にさらされている状況を広く社会に伝えることで、危機を招いたり健康や人々の尊厳を脅かしたりするリスクを事前に明らかにし、その防止に貢献することができます。また、多くの人に現状を知ってもらうことで多岐にわたる分野の人たちと連帯が生まれ、新たなアプローチや実践を推進できるようになります。この証言で一番力強いのは、やはり当事者自ら語り伝える事実です。世界の医療団は当事者たちが証言するのをサポートし、各国の政府や国際機関の政策決定者に訴えるために活動を続けています。
そして今、ウクライナ
2022年2月、ウクライナにおける武力紛争が始まったことにより、ウクライナ国内の状況は一変しました。慣れ親しんだ住まいや憩いの場は破壊され、人々は国外への避難を余儀なくされました。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表によれば、難民の数は6月16日時点で国外に避難した人が約1,000万人を超え、国内で避難生活を余儀なくされている人は約710万人に上っているとしています。今や世界の100人に1人は紛争や迫害で家を追われ、難民・国内避難民として生活しています。今回ウクライナで避難している人々の多くは女性や子ども、そして高齢者など最も脆弱な立場の人々です。彼らの置かれている環境や医療へのアクセスが急激に悪化しており、その流動的な状況の中で活動を進めていくためには柔軟な対応が必要です。紛争地といっても場所が変われば状況も違い、これもまた一つひとつの現場で一番適した対応を編み出していくのが私たちの役割です。今はまだ緊急支援期で、まずは失われたもの(医療器材、医薬品)を補充する、そしてやがてくる復興期に向けて、現地の人たちが活躍できるようサポートし続けます。
誰もが医療とつながるようにするには、常に現場で必要とされるものを生み出し、一人ひとり違う状況を乗り越えるための創造性が重要です。そのためには経験で培われた技術と知見、人間力によって個別の案件に対応し、社会に声を上げていくことが私たちの使命になります。そしてこれを読んでいる皆さま、ニュースになっていないからといって、さまざまな社会課題が解決されているわけではありません。ミャンマーで、アフガニスタンで、イエメンで、今日もまた医療につながらず、そして声も上げる事の出来ない人たちがいる、そのことに思いを馳せていただくことを願っています。
Interviewer:蛭子 彩華 本誌編集委員
米良 彰子(めら あきこ)
特定非営利活動法人 世界の医療団 日本 事務局長
兵庫県宝塚市生まれ。スポーツメーカーで海外営業として働く傍ら、阪神淡路大震災時より多言語放送局の立ち上げ・運営に携わる。アメリカの大学で国際関係学を学び修士号取得。国際機関でのインターンなどの経験を経て、NGOで必須サービスや、食料・栄養分野でのアドボカシー・キャンペーンに関わる。バングラデシュ・ベナン・ブルキナファソ・ウガンダ・ネパール・インド・バヌアツなど様々な現場で国際協力に携わった後、2020年3月より現職。